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フラットネスをかき混ぜる🌪(3)
次元が膨張収縮する現象的フラットネスをつくるAR体験📖🔁📱
文:水野勝仁
ヒトは写真という三次元空間を二次元イメージとして捉えられる特殊なフラットネスを生み出した。ヒトは三次元空間に存在しているので、紙に焼き付けられた特殊なフラットネスを見ても、意識プロセスで立ち現れる現象的フラットネスにおいて、即座に三次元空間が立ち上がるようになっている。対して、ルーカス・ブレイロックは「写真は、すべてそれらのフラットネスのために、純粋に混成の空間を示唆する:それは二次元と三次元、表面平面とそのなかの空間」 (*1) と考えている。彼はPhotoshopでフラットネスの情報を構成する最小単位であるピクセルを操作して、現象的フラットネスで否応なく立ち上がってしまう三次元空間の立ち上がりを阻害するような写真作品を作成している。ブレイロックをはじめとして、Photoshopなどのソフトウェアでピクセル単位で画像に操作を加える写真家たちは、ピクセルという幾何学的情報を持たず、二次元でも三次元でもない要素の集積した情報源として形成される存在するフラットネスにアクセスして、ヒトの意識に立ち上がる現象的フラットネスにおける三次元空間を制御しようと試みている。ここまでが前回までの考察である。
ヒトとスマートフォンとが示す異なる二つの現象的フラットネス
今回は、ブレイロックが《Making Memeries》と言う作品集において、ARという写真とは別の仕方でフラットネスを利用している点を考えていきたい。《Making Memeries》 (*2) は写真集であり、厚紙に印刷された写真をスマートフォンやタブレットのアプリで見ると、奥行き、動きや音が追加されるAR作品でもある。ブレイロックは《Making Memeries》で、ヒトの現象的フラットネスに三次元空間を立ち上げないような情報源=フラットネスをつくる写真作品と対になるようなAR作品を作成しているように思われる。ARはもともとスマートフォンやタブレットのアプリに「認識」させて、ディスプレイ内に物理空間と連動した三次元空間を立ち上げる試みではあるが、ブレイロックという写真を二次元と三次元とが入り混じった「フラットネス」として考える写真家の試みから、ヒトとスマートフォンとが示す異なる二つの現象的フラットネスという観点からARを考えてみるのが今回の考察のねらいである。
《Making Memeries》は、厚いボール紙でできた平たく広げることができる写真集として見ることができるけれど、見開きページに印刷されたブレイロックによる特徴的な写真平面をスマートフォンのカメラでスキャンして、ディスプレイというもう一つの平面に表示させると、そこにARのイメージが表示される。ARが表示されるプロセスは、紙のページにカメラを向けると写真はそのままのかたちで捉えられ、ディスプレイに表示される。だが、瞬時にアプリは状況を「認識」し、紙のページに印刷された写真からスキャンされたイメージの上に、ARとしてのイメージを被せる。このとき、《Making Memeries》には紙のページに印刷された写真面と写真面をカメラでスキャンしたイメージ面とその上に被されるAR面という三つがある。この状況を、情報源としてのフラットネス、物質的フラットネス、現象的フラットネスで考えてみたい。まず、《Making Memeries》には、印刷されて変化することがない紙とピクセルで構成されて変化し続けるディスプレイという二つの物質的フラットネスが存在する。「写真面をカメラでスキャンしたイメージ面とその上に被されるAR面」は、ピクセルを情報源とするフラットネスをディスプレイという物質的フラットネスで具現化して出来上がっている。このとき、紙のページはスキャンされる物質的フラットネスであり、ディスプレイに情報を送る情報源としても存在していることになる。考えてみれば、紙もディスプレイもヒトにも情報を送っているので、物質的フラットネスは常に情報が具現化したフラットネスでもある。このように考えると、《Making Memeries》におけるARは、情報のフラットネスを別々のかたちで具現化した紙とディスプレイという二つの物質的フラットネスの重なりとして考えればいいということになる。
次に、ディスプレイに表示されているものを改めて考えてみたい。カメラは紙に印刷された写真を情報源としてスキャンし、特徴量を検出して、写真を「認識」し、ディスプレイにARとしての画像を表示する。一度特徴量を捉えた後は、カメラを動かしても、アプリは印刷された写真とカメラとの位置関係を常に更新し、適正なARイメージをディスプレイに表示し続けていく。 (*3) このとき、私たちの眼とその後の意識のプロセスとスマートフォンのカメラとその後の情報処理は異なるものになっている。当たり前だが、ヒトが《Making Memeries》の写真をいくら見ても、ARとしてスマートフォンのディスプレイに表示されるイメージは見えてこない。スマートフォンのカメラがページの写真を捉え、その後の演算処理によって、ARのイメージはディスプレイに表示される。このときはじめて、ヒトはARのイメージを見ることになる。ここでは、一つの情報源からヒトとコンピュータとで二つの異なる現象的フラットネスが立ち上がっていると言える。一つは、写真を見たヒトの意識に立ち現れる二次元と三次元とが拮抗するようにブレイロックに操作された現象的フラットネスであり、もう一つは、スマートフォンのカメラが捉えた平面とその平面の特徴量を「認識」して生成されたARイメージとが統合された現象的フラットネスである。このとき、スマートフォンのディスプレイは、情報を具現化するための物質的フラットネスであり、情報を認識して処理した結果が現れる現象的フラットネスにもなっている。
ヒトとスマートフォンとで異なる現象的フラットネスが立ち上がっているけれど、ヒトの眼とスマートフォンのカメラとで見ているのは紙に印刷された同一のブレイロックの写真である。ブレイロックの写真は情報源として存在し、ヒトはヒトのコードにしたがって、スマートフォンはアプリのコードにしたがって、同一の情報源からの別々のメッセージを受け取っている。この状況は、マノヴィッチが「セマンティックギャップ」と書くものであろう。
認知的自動化の目標は、セマンティックギャップによって困難になっている。コンピュータ科学のこの用語は、人間があるデータから抽出できる情報と、コンピュータが同じデータをどのように見ているかの違いを指す。例えば、人間の読み手は文章のアイデアや文体、ジャンルを理解しているけれど、コンピュータはスペースで区切られた文字の羅列を「見る」ことしかできない。ヒトはデジタル写真の人物を見れば、すぐに顔を判別したり、人物を背景から切り離したり、人物が何を着ているかを理解したり、顔の表情を解釈したりすることができる。しかし、コンピュータには、画像を構成する数字しか見えない。 (*4)
ヒトは二次元の写真に具現化されたフラットネスから情報を受け取ると、即座に現れる現象的フラットネスにおいて三次元の空間が自動的に形成されていく。ブレイロックの作品では、次元の自動的な形成を阻害するような情報がヒトに与えられている。対して、スマートフォンは二次元の写真の色を数字として「見」て、そこから特徴量を算出して写真を「認識」し、ディスプレイに表示する情報を計算し、現象的フラットネスとして表示する。このプロセスは《Making Memeries》も他のARと同じである。《Making Memeries》を体験するヒトは紙とディスプレイという異なる物質的フラットネスを見ながら、同一のフラットネスが示す情報から立ち現れる異なる二つの現象的フラットネスを認識することになる。ブレイロックは、スマートフォンが立ち上げたヒトとは別のかたちの現象的フラットネスをディスプレイという物質的フラットネスを通して見て、自らの現象的フラットネスを立ち上げるというARの特殊な体験においても、写真作品と同様に二次元と三次元とを拮抗させる仕掛けを施していると考えられる。
「知覚のインターフェイス理論(ITP)」からブレイロックの写真とARを考える
認知心理学者のドナルド・ホフマンが提唱する「知覚のインターフェイス理論(ITP)」を参照して、ヒトの現象的フラットネスをハックし二次元と三次元とを拮抗させるブレイロックの写真とARを考えていきたい。ITPとは「各知覚系はラップトップパソコンのデスクトップ画面のように、一つのユーザーインターフェイスをなす」 (*5) というものである。ホフマンが「インターフェイス」という言葉で示すのは以下のことである。
デスクトップインターフェイス[この例ではデスクトップ画面を指す]の目的は、利用者にコンピューターの「真実」を開示することにあるのではない。ちなみに、このたとえでの「真実」とは、電子回路や電圧や一連のソフトウェアを指す。むしろインターフェイスの目的は、「真実」を隠して、Eメールを書く、画像を編集するなどといった有用な作業がしやすくなるよう、単純な図像を提示することにある。Eメールを書くために自分で電圧を調整しなければならなかったら、あなたが書いたEメールが友人のもとに届くことは決してないだろう。 (*6)
インターフェイスは「真実」を隠し、作業をしやすい状況としてアイコンを提示してくれる。アイコン主体のグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)だけでなく、テキスト・ユーザ・インターフェイス(TUI)であっても、コンピュータを動かしている「電子回路や電圧」で何が起こっているのかはわからないけれど、コンピュータを自在に使うことができる。インターフェイスはコンピュータが処理する情報を、ヒトが使いやすいかたちでディスプレイに表示してくれているだけであって、コンピュータそのもので実際に何が起きているのかを教えてくれるものではない。そして、ホフマンはITPにおいて、コンピュータのインターフェイスデザインが行っていることをヒトの認識全体に拡張していく。そして、時空やモノそのもの自体がインターフェイスであるという主張する。
空間や時間はそれ自体、私たちの持つインターフェイスの単なるフォーマットであり、また物体は、適応度利得の獲得という課題の遂行にあたり、さまざまな選択肢に注意を向ける際に私たちがその場で作り出したアイコンにすぎない。つまり物体は、私たちの感覚に自らを押しつけてくる既存の実体ではなく、利用可能な多数の利得から、競争相手より多くのポイントを稼がなければならないという課題に対する解決手段なのである。 (*7)
時空やモノが実在するのではなく、単なるインターフェイスのフォーマットであるという主張は、私たちの直観とは大きく異なる。しかし、GUIとTUIという異なるインターフェイスのフォーマットによってコンピュータの操作方法も作業の印象も大きく異なるものになるにもかかわらず、同一の処理ができるということから、ITPを考えると理解しやすいだろう。コンピュータで起こっている処理がアイコンとして表示されるのか、それとも文字列として表示されるのかによって、コンピュータの使い勝手は大きく変わってくる。しかも、それはユーザの好みによるところもあり、どちらがいいとは一概に決めることはできない。ただし、現在のコンピュータの主流がGUIであることは、文字列よりもグラフィックの方が多くのポイントを稼いだということである。
ブレイロックの写真を考察して、写真・画像をフラットネスという情報源として捉えているこの連載においては、ホフマンのITPはとても有益な示唆を与えてくれる。写真や画像は実在するモノではなく、それらは情報源として存在している。それらはモノではなく情報でしかないから、それらを認識するヒトやスマートフォンという別々の認識フォーマットによって別々のアイコンが立ち上がる。ここで個別に立ち上がるアイコンは、この連載においては物質的フラットネスと現象的フラットネスとが合わさった存在だと考えられるだろう。ヒトやスマートフォンは存在し続けるために、情報のフラットネスからより有利な利得を得るようにアイコン=物質的フラットネス+現象的フラットネスを立ち上げていると言えるだろう。
ITPでさらに興味深いのが、ホフマンがITPを理論物理学の「ホログラフィック原理」と合致する理論だと考えていることである。「ホログラフィック原理」とは、物理学者のレオナルド・サスキンドとヘーラルト・トホーフによって開拓された原理で、私たちが通常経験している三次元の世界が「ホログラム、言い換えると遠隔の二次元表面にコード化された実在のイメージ」 (*8) だとするものである。
私たちの誰もが、空間や時間に関して強い確信を抱いている。私の確信は、ホログラフィック原理によって揺るがされた。だがすぐに、その結果は、私たちが知覚している時空が、[コンピューター利用者のあいだの]インターフェイスをなすデスクトップ画面のようなものであると主張するITPとうまく合致することを悟った。コンピューターのデスクトップ画面を虫メガネで拡大して見れば、無数のピクセルが見える。この場合のピクセルとはデスクトップ画面の最小限の区画を指し、それより小さな単位ではデスクトップ画面は存在しない。一歩下がって見ると、デスクトップ画面は連続する表面であるように見える。コンピューター上で「ドゥーム」や「アンチャーテッド」のようなビデオゲームをプレイすると、立体的なオブジェクトに満ちた迫真の三次元世界を目にする。だがそこに提示されている情報は、画面上のピクセルの数によって制限された、完全に二次元の情報なのだ。同じことは、コンピューターから目を離して周囲の世界を見るときにも当てはまる。私たちの周囲の世界もピクセルから成り、あらゆる情報が二次元なのである。 (*9)
ホフマンはホログラフィック原理のサポートを得て、ITPでモノではなく情報からヒトの認識を考える大きな転換を行っている。ピクセルが示す情報が「立体的なオブジェクトに満ちた迫真の三次元世界」を形成するにしても、それはあくまでも二次元のピクセルによる情報なのである。情報が二次元になり、三次元になっていく。この考え方は、この連載でブレイロックの写真をピクセルから考察してきた考えと合致する。私としては、Photoshopとディスプレイとでピクセルにアクセスし、操作していくブレイロックの写真が、ホフマンのITP理論、さらにはホログラフィック原理にまでつなげられることがとても興味深い。もともと写真という特殊なフラットネスは、三次元空間を二次元平面に自動的に変換する装置として、ホログラフィック原理とは逆ではあるが三次元空間の情報を二次元平面に置き換えるということを物質の化学反応のレベルで行っていたと言えるかもしれない。さらに、ホログラフィック原理は二次元平面に記録した光の干渉縞から三次元の像を再生する「ホログラム」から命名されていることを考えると、写真とホログラフィック原理とはどこかで繋がっていると言えるだろう。特に、写真が光による物資の化学的変化に基づく表現から、コンピュータによる情報操作に基づいたピクセルの表現へと変化した現在では、ホログラフィック原理の二次元における情報から三次元が立ち上がるという主張から写真を考えることは有益であり、特に、写真を情報源としてのフラットネスと捉える本連載の主張を強くサポートしてくれるものだと、私は考えている。さらに、ホフマンがホログラフィック原理と合致しているとするITPは、写真のフラットネスをヒトの意識に現れる現象的フラットネスにおける次元の増減の考察について有益な示唆を与えてくれるだろう。
そこで次に、ホフマンのITPの錯覚についての指摘から、ブレイロックの写真のフラットネスを受けて、現象的フラットネスに現れる二次元と三次元との拮抗を考えてみたい。
しかし、ITPはそれとはまったく異なり、視覚系が適応度メッセージをいかに解読するのかを教えてくれると考える。客観的な時空や、時空の内部にあらかじめ存在し、真の性質を回復すべき物体などというものはなく、時空や物体は、適応度メッセージを記述するコードシステムにすぎない。ここまで見てきた、二次元の情報を三次元の情報へと膨張させる錯視の例は、実際には実在が三次元ではなく二次元を持つことを示しているのではない。それらの例の目的は、時空それ自体が実在の一側面であると想定している慣習的な見方を弱めることになる。それらの例が二次元を持つのは、白紙の上に印刷されたものであるからにすぎない。 (*10)
要するに、私たちはあらかじめ存在している物体が持つ真の三次元の形を回復するのではない。そもそも、そのような物体は存在しない。そうではなく、コード化言語としてたまたま三次元の形が用いられる適応度メッセージを回復しているのである。 (*11)
ホフマンのITPによる世界認識から考えると、ブレイロックが作成しているのは、ヒトが未だ明確な解読方法を持たない「適応度メッセージを記述するコードシステム」が埋め込まれたフラットネスだと言えるだろう。写真や画像は二次元平面だと考えられるが、それは紙やディスプレイというモノによって提示されているに過ぎない。それは三次元のオブジェクトであるが、二次元の平面だとして認識される。このように次元が増減するのは、もともと物質が存在せずに「適応度メッセージを記述するコードシステム」しかないからである。ホフマンが提示するネッカーの立方体などの錯視は二次元の情報が三次元へと膨張させるのだが、ブレイロックはピクセルの操作によって、二次元から三次元への膨張とともに三次元から二次元の収縮も可能にし、膨張と収縮とが同時に起こるようなフラットネスを記述している。さらに《Making Memeries》では、ヒトに向けたメッセージだけではなく、スマートフォンのアプリに向けたメッセージも埋め込んだコードシステムを記述して、二次元平面と三次元空間とが異なるバランスで膨張収縮する現象的フラットネスをつくっていると考えられる。
《Making Memeries》が示す三次元空間の支配的な地位を揺るがすAR体験
ブレイロックが《Making Memeries》で、スマートフォンのディスプレイに表示するARイメージは二次元である写真を三次元化するものがいくつかある。たとえば、下の写真を見てみると、三次元空間に置かれたブロックを撮影したものであることがわかる。しかし、このブロックはさまざまな角度で撮影されたのち、Photoshopで切り抜かれていることにも気づく。そのとき、このブロックはピクセルの集合という二次元のイメージとして切り抜かれて、二次元のイメージとしてペーストされて、ピクセルの集合のなかに位置を与えられている。しかし、ヒトは二次元のイメージとしてペーストされたブロックを見ると三次元のオブジェクトとして認識する現象的フラットネスを形成してしまう。また、手前の茶色の「柱」のようなものは、ベタっとしたテクスチャや影のなさから、ピクセルを「茶色」で塗りつぶしたものであろう。この「柱」のようなものは、おそらく多くのヒトが「茶色のライン」という二次元のイメージとして認識するだろう。さらにブレイロックによって所々に描かれた黒ラインが二次元平面と三次元空間双方の立ち上がりを拮抗させる役割を担っている。ブレイロックはピクセルという情報源を操作して、二次元と三次元とがぶつかり合う奇妙な現象的フラットネスをヒトの意識に立ち上げるフラットネスをつくっている。
《Making Memeries》のページを撮影
ヒトは写真を見たときに三次元空間をともなう現象的フラットネスをどうしても立ち上げてしまうけれど、ブレイロックが作成した情報のフラットネスが具現化した物質的フラットネスとして二次元に固定された写真は、三次元的な現象的フラットネスから次元を一つ削除するように作用する。紙に印刷された写真を見たヒトの現象的フラットネスで三次元に膨張した表現を立ち上げそうになるが、二つの次元が曖昧な状態になるようにピクセル操作された写真表現を見続けるなかで、現象的フラットネスは三次元に完全に膨張できず、二次元に収縮していく。この次元の膨張と収縮のもとで、ブレイロックの写真はヒトの認識で支配的な三次元空間の役割を揺るがす現象的フラットネスをつくることができるのである。しかし、《Making Memeries》におけるブレイロックは、ヒトの意識に一瞬立ち上がる三次元空間が支配的な現象的フラットネスをスマートフォンに表示させる。《Making Memeries》のARは、ブレイロックの写真を見たときに、ヒトの意識のなかに否応なく立ち上がってしまう三次元空間をともなう現象的フラットネスを動くかたちで提示している。ヒトはスマートフォンが提示する現象的フラットネスを見ているのだが、それは意識プロセスで一瞬立ち上がりはしたが即座に収縮させられた三次元優位の自らの現象的フラットネスでもある。
《Making Memeries》をアプリでスキャンしたARイメージ(1)
実際に、《Making Memeries》のARを見ていきたい。ブロックのような三次元のオブジェクトを存在させつつ、二次元を強調する「柱」がある写真を、スマートフォンのカメラでスキャンすると、ディスプレイには三次元的なARイメージが表示される。茶色い「柱」のようなものには厚みがあり、影もあり、手で掴めるような存在感を示している。「柱」の両端は床面から立ち上がった面に接している。ツールボックスのようなものが出来上がって、そこに4つのブロックが入っているようなARイメージがスマートフォンのディスプレイに表示されている。ブロックの穴からは音符が出てきて、その音符は《Making Memeries》そのものから離れて、ディスプレイに表示されている私の机の上の空間にまで展開されていく。
《Making Memeries》をアプリでスキャンしたARイメージ(2)
二次元のページに印刷された写真から三次元のARイメージが立ち上がったように書いてきたけれど、これらはスマートフォンのディスプレイという物質的フラットネスに表示されている。スマートフォンはブレイロックが仕込んだ三次元的な現象を強調するARイメージを現象的フラットネスとして立ち上げ、それを改めてヒトはディスプレイという二次元の物質的フラットネスを透して二次元のページを見てる状況に置かれている。三次元空間が優位のスマートフォンの現象的フラットネスをディスプレイという二次元平面優位の物質的フラットネスを透して見るという奇妙な状況である。さらに、三次元空間優位の現象的フラットネスが強くなるのは、スマートフォンを動かすと、それに応じて、ディスプレイのARイメージも変化するからである。しかし、ここでも奇妙なねじれが生じている。ヒトは三次元空間でスマートフォンを動かしているけれど、スマートフォンはヒトの動きとページとの位置関係を常に計算し、その結果をディスプレイに二次元情報として示している、というねじれである。さらに、ヒトはこのピクセルによって構成される画像を二次元情報として認識しながらも、そこに三次元空間やオブジェクトがあるような認識を立ち上げてしまう。しかも、写真から三次元オブジェクトを認識していくよりも、より強く認識してしまうのである。それは、紙とディスプレイという二つの物質的フラットネスが三次元空間で連動しているということと、紙に印刷された情報のフラットネスを見たときにヒトの意識において否応なく立ち上がる三次元的に膨張した現象的フラットネスをディスプレイに見るという二つの体験が合わさっているからである。この二つの体験は、ヒトが自らの意識に一度は立ち現れた二次元の情報が膨張して形成された三次元空間を示す現象的フラットネスの具現化をディスプレイという二次元平面を強調する物質的フラットネスを透して見るという体験に統合されていき、AR体験そのものを可能にしている三次元空間よりもページやディスプレイといった二次元平面が示す情報が優位になっていく。ブレイロックの《Making Memeries》は写真集のページとディスプレイという二つの二次元性を強調する物質的フラットネスを連動させたAR体験によって、そのあいだにある物理的な三次元空間やヒトの現象的フラットネスにおける三次元空間の支配的な地位を揺るがしているのである。
*1 Lucas Blalock, ‘DRAWING MACHINE’, “Foam Magazine #38: Under Construction”, 2014, p. 208.
*2 Lucas Blalock, “Making Memeries”, SPBH EDITIONS, 2016。AR体験は「Making Memeries by Lucas Blalock」https://www.youtube.com/watch?v=ilrMAs6EUnM (最終アクセス 2021年2月16日)で見ることができる。
*3 橋本直「子どもに教えたい通信の仕組み ARの仕組み」、B-plus : 電子情報通信学会通信ソサイエティマガジン、2013年7巻3号 p. 164-165、https://doi.org/10.1587/bplus.7.164(最終アクセス 2021年2月16日)
*4 Lev Manovich, “Cultural Analytics”, MIT Press, 2020, p. 138
*5 ドナルド・ホフマン『世界はありのままに見ることができない──なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』(Kindle版)、青土社、2020年、位置No. 1932/6184。訳語の「インターフェイス」を「インターフェイス」に変更した。以下、7、9の引用でも同様の変更をしている。
*6 同上書、位置No. 75/6184
*7 同上書、位置No. 2053/6184
*8 同上書、位置No. 2678/6184
*9 同上書、位置No. 2668/6184
*10 同上書、位置No. 3236/6184
*11 同上書、位置No. 3248/6184
水野 勝仁 1977年生まれ。メディアアートやインターネット上の表現をヒトの認識のアップデートという観点から考察しつつ、同時に「ヒトとコンピュータの共進化」という観点でインターフェイスの研究も行っている。主なテキストに「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」(MASSAGE MAGAZINE)、「インターフェイスを読む」(ÉKRITS)など。
描かれた植木鉢
路上観察の写真はしばしば透明なものとして扱われる。大切なのはあくまで写っている対象であって、写真それ自体ではない、というのが路上観察写真の暗黙のルールとなっている。それゆえ赤瀬川原平らが1980年代半ばに「路上観察学会」を発足させて以降、彼らやその追随者によって刊行されてきた数多くの路上観察本において、写真は本の不可欠な構成要素でありながらも、多くの場合、ぞんざいな仕方で掲載されている。それらは細部が読み取れないほどサイズが小さかったり、ページのレイアウトに合わせて自由にトリミングされたりしている。それはまるで、路上観察の写真を「作品」にしてしまったら、路上観察の実践自体が台無しになってしまうか、のような扱いである。
だが写真を透明なものとしてみなすとき、そこには常にまやかしがある。物理的事実として、写真は透明ではない。私たちの目が捉えているのは、液晶モニター上の光か、紙の上に置かれたインクである。ただし、そこにこだわってもあまり意味はない。それを言ったら、写真を見るというのは光やインクを見るのと同じであって、それ以上でも以下でもないからである。問題は、路上観察の写真を「透明」ではないもの、言い換えれば、「不透明な画像」として見ることによって、どのような気づきが得られるか、ということである。
もし植木鉢が描写されているのが、写真ではなく、絵画であれば、透明性の幻想が抱かれることもないだろう。「植木鉢のある風景」は路上観察写真の系譜に位置づけられるとともに、植木鉢が描かれた絵画と比較することもできる。そうすることで、路上の植木鉢を撮影した写真の不透明性について考える手がかりが得られるかもしれない。
植木鉢が描かれた絵画、それも植木鉢が添え物ではなく、主役の座を占めているような絵画として、まず思い浮かんだのが小田野直武(1749-80)の《不忍池図》(秋田県立近代美術館蔵)である。(*1) 秋田藩の佐竹北家に仕えた直武は、藩主の佐竹曙山や北家当主の佐竹義躬らとともに、「秋田蘭画」の確立者として、あるいはより一般には、『解体新書』の挿図画家として知られている。東京・上野の不忍池を描いた《不忍池図》の正確な制作時期は不明であるが、直武は1773年(安永2年)から1777年(安永6年)にかけて、そして、1778年(安永7年)秋から翌年にかけて、二度の江戸滞在を行っていることから、不忍池周辺の光景は実際に見知っていたと考えられる。(*2) ちなみに彼は《不忍池図》と同じ場所・方角、すなわち、池の南岸から北の方を向いて池と、その中に浮かぶ弁天堂を描いた眼鏡絵(鏡やレンズを装着した箱に入れて観賞することで、鑑賞者の方に向かって飛び出してみえるように描かれた絵)も制作している。
《不忍池図》はまさしく「植木鉢のある風景」である。池の水面とその上に広がる空を背にして、池の縁に接する地面に二つの植木鉢が置かれている。花模様の浮き彫りのある茶色い鉢が、無地の白い鉢の右半分を覆い隠している。右方向から投げかけられた光が、二つの鉢の左端を暗くし、さらには白い鉢の影が土の上に、池の岸の方へ向かって伸びている。これらの陰影は、植木鉢が実際にそこにあるかのように見せる、という意味で、絵画という媒体を透明化しようとする――観者にAの絵ではなく、Aそのものを見ている気にさせる――と同時に、陰影それ自体が「西洋から伝わった新しい描き方」の記号としての意味を帯びている。それは「影をつければ、より本物らしく見えるんだよ」と私たちに語りかけてくる、幾分わざとらしい影である。
江戸中期の日本の画家たちが、ルネサンスのヨーロッパで発明された描画技法である線遠近法(英語では「linear perspective」、「透視図法」とも訳される)を新たに取り入れて制作した絵画は、「中景脱落」によって特徴づけられると稲賀繁美は論じている。線遠近法は本来、絵画の二次元平面の向こう側に、三次元の空間が切れ目なしに広がっているようなイリュージョンを鑑賞者に与えるための技法であった。だが線遠近法を意識的に用いた直武や曙山らの秋田蘭画には、「巨大な前景が、中継役となるべき中景を介在させずに、じかに遠景に重ねられる、という奇異な構図」が頻発することを稲賀は指摘し、そのような近くと遠くの対比が誇張された表現を、線遠近法の「和風化」と呼ぶ。(*3) 曙山はその画論『画法綱領』において従来の日本の絵画には「遠近ノ度数ヲ図ル法」が欠けていると述べていた。直訳すれば「眺望」とか「展望」となるはずの「perspective」を今に至るまで「遠近法」と呼んできた慣習自体が、日本における「linear perspective」受容の特異性を示していると稲賀は論じている。
ここで写真という媒体のことを考えてみるならば、それは空間を切れ目なしに、連続的に表象する技術にほかならない。そのやり方は強制的であって、絵画のように「中景脱落」させたり、空間の非=連続性を表したりすることは、モンタージュなどの特殊技法を用いない限り、すなわち人為的に複数の写真を組み合わせない限り不可能である。その意味では、《不忍池図》はその細部描写の精密さにもかかわらず、非=写真的であるとも言える。
線遠近法を用いた江戸絵画の「中景脱落」は単なる技法上の未熟さではなく、「借景」や「見立て」といった日本の視覚文化と深いつながりを持っていたと稲賀は考える。というのも「中景脱落」の構図においては、中景の欠如が「一枚の絵の中で、異質な要素の共存を可能にして」おり、「借景」も「見立て」も異質な要素の組み合わせによって成立するからである。(*4) 鉢に浮かんだ茶碗が釣り船に見立てられた鈴木春信の《風流江戸百景 品川帰帆》や、まさに不忍池を舞台として描いた磯田湖龍斎の《風流江戸八景 忍岡ノ晩鐘》といった浮世絵と、直武の《不忍池図》との画面構成の類似に、稲賀は注意を促している。
この指摘を参照しつつ、今橋理子は2009年に出版された著書『秋田蘭画の近代:小田野直武「不忍池図」を読む』で、《不忍池図》もまた見立てのイメージとして解釈することができ、実際そのようなものとして直武によって構想されたのではないか、という説を提起している。(*5) 牡丹と芍薬がしばしば妖艶な美女の喩えに用いられてきたこと、不忍池が男女の逢瀬の場として知られていたこと、そもそも不忍池が琵琶湖や中国の西湖に見立てられていたこと、秋田蘭画の他の作例に中国前漢の女官「班婕妤(はんしょうよ)」――皇帝の寵愛を受けながら、やがて捨てられる悲恋の女性――と考えられる人物が描かれていること、などを状況証拠として積み重ねながら、今橋は《不忍池図》の前景を占める鉢植えの紅白の芍薬は、班婕妤の見立てとして描かれていると主張する。
私は日本美術史の専門家ではないので、今橋の説が江戸絵画史の研究者たちにどのように受け止められているのかは、わからない。だが少なくとも、今橋の著書は、芍薬の植木鉢が不忍池を背に描かれていることの必然性をもっとも深く突き詰めようとした試みのひとつであることはわかる。他方で、橋本治は《不忍池図》では池へと向かう視点と、鉢へ向かう視点がバラバラであること、言い換えれば、両者の隔たりに注目する。鉢が上から見下ろすようなアングルで描かれているのに対して、池は遠くを見渡すような視点で描かれ、水平線が低く取られている。鉢を見るのと同じ下向きのアングルで池を描いたら、視点の一貫性は保たれるかもしれないが、池の水面が画面の上半分を占めることになってしまう。それを直武は避けたかったのではないか、と橋本は推測する。なぜなら、「洋風画を描くということは、「遠くを感じたい」ということ」であり、水面をあまり大きく描きすぎると、場所の具体性が強まりすぎて、鑑賞者が「遠く」に思いを寄せる契機が失われてしまうからである。(*6)
橋本によれば、《不忍池図》に限らず「日本の洋風画の多くは、「遠くへの憧れ」を感じさせる、遠近感を強調させた風景画」である。(*7) 彼はこの言葉を用いていないが、そうした「遠くへの憧れ」のイメージ化も一種の「見立て」であると捉えることができよう。それは特定の典拠に基づき、知的な遊びとしての側面を持った「見立絵」とは異なるが、上野の風景に、漠然と異国の景色が重ね合わされることで、直接的にはAに見えるものを同時にBとしても見ることを誘うという点では、同じ意味構造を持つ。(*8)
青い花
これらの解釈を総合すると、それが具体的に何に重ね合わされていたのかは未解決だとしても、《不忍池図》が見立てのイメージであり、そのように直武本人が構想した、あるいは少なくとも、同時代にこの絵を見た人にそのように理解されていたと考えるのはそれほど無理なことであるとは思われない。ではそのようなものとして《不忍池図》を見たとき、前景の植木鉢にはどのような意味があると言えるだろうか。今橋はそこに芍薬が描かれている理由を詳細に分析するが、それが「鉢植えであること」の必然性については議論していない。また彼女は二つ目の白い鉢――黄色と青色の花が植えられた後方の白い鉢――についても特に独自の解釈は与えていない。確かに芍薬の鉢と比較すると、白い鉢はせいぜい「脇役」である。だが芍薬に美女の喩えとしての重層的な意味が与えられており、そのこと自体が絵の主題であったのだとすれば、白い鉢の植物が何の理由もなくそこに置かれているのもかえって奇妙であるように思われる。
今橋の著書以前に発表された山本丈志の論考は、《不忍池図》に描かれたすべての植物に意味があると主張する。(*9) まず山本が問題にするのは、《不忍池図》は特定の季節を描いた絵とはみなせないということである。というのも、もしそうだとしたら、芍薬が咲く5~6月頃に、不忍池の水面に蓮の葉がまったく見られないのは不自然だからである(当時から不忍池は蓮の名所として知られていた)。このことをたよりに、山本は《不忍池図》はひとつの画面に春夏秋冬を描いた「四季絵」であり、植物が各季節を表していると考える。具体的には、キンセンカ(白い鉢の黄色い花)と柳(画面右端の木)が春、芍薬が夏、白い鉢の青い花が秋、葉がない状態の蓮が冬を指している。
問題は秋である。青い花は従来、日本在来種のムシャリンドウ(シソ科ムシャリンドウ属)と同定されてきたが、花や葉の形から判断すると、当時、中国名で「鼠尾草(ソビソウ)」と呼ばれていたシソ科サルビア属(アキギリ属)の植物ではないか、と山本は推測する。その上で、直武に洋風画を伝授したとされる平賀源内が『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』で鼠尾草とは(サルビア属の日本在来種のひとつである)秋に咲くタムラソウのことであると述べており、現在アキノタムラソウという和名が与えられている種(Salvia japonica)は初夏から秋にかけて咲くから、《不忍池図》のサルビア属の植物も秋の花として描かれているのかではないか、と山本は論じている。(*10) 山本が指摘するように、確かに《不忍池図》の青い花は、ムシャリンドウとは葉の付き方や花の形が異なっている。他方で、それがアキノタムラソウのようには見えないのも確かである(ただし厳密には、同論で山本はここに描かれているのがアキノタムラソウだと述べているわけではない)。アキノタムラソウは花がずっと小さく、花穂が上に伸びている。青系統の花を咲かせるサルビア属の日本在来種は他にアキギリなどがあるが、いずれも描かれている植物とは草姿がかなり異なっている。したがって、もしここで描かれているのが、サルビア属の植物だとしたら、外来種であると考えるのが妥当であるように思われる。
後に発表された別の論考では、山本は描かれているのは当時「丹参」と呼ばれた外来種のヤクヨウサルビア(コモン・セージ、学名Salvia officinalis)ではないかと結論づけている。(*11) アキノタムラソウと比べると、ヤクヨウサルビアは描かれている植物に近いが、萼の形態に関して言えば、絵はヤクヨウサルビアのそれ(花弁を包み込んでいる)よりも、ムシャリンドウのそれ(花弁を包み込んでいない)に似ている。ちなみにヤクヨウサルビアは秋まで咲き続けることもあるようだが、花期は一般に5~6月とされている。(*12)
山本とは少し視点を変えて、《不忍池図》に描かれている植物を在来種/外来種の区別で分類してみたらどうだろうか。芍薬は中国原産、キンセンカ(カレンデュラ)は南ヨーロッパ原産とされる。ともに古代より薬草として用いられてきた。キンセンカは(その中国風の名称にもかかわらず)現在では洋風の花として一般に捉えられていると思うが、江戸初期に伝来し、日本の本草学の成立に影響を与えた李時珍の『本草綱目』に「金盞草」として記載されていることをふまえれば、直武周辺でそれがヨーロッパ的な植物として受け止められていたかどうかはわからない。(*13) 中国原産の花だと思われていたかもしれない。いずれにしても、在来種ではないことは知られていただろう。ムシャリンドウ(学名Dracocephalum argunense Fisch. ex Link)は在来種である(だが日本固有種ではなく中国にも自生する)。ただし、よく似た外見を持つ同属の種(Dracocephalum ruyschiana)がユーラシアに広く自生しており、「ドラゴンヘッド」の一般名で呼ばれ、薬草としてもヨーロッパで用いられてきた(ムシャリンドウ属(Dracocephalum)の属名は「竜の頭」という意味である)。(*14) つまり《不忍池図》で直武が描こうとしたのがムシャリンドウ属の植物であったとしても、それが在来種のムシャリンドウではなく、ムシャリンドウ属の外来種である可能性もなくはない。
山本が指摘するとおり、《不忍池図》において芍薬とキンセンカの形態が正確に描かれていることをふまえれば、そこに描かれた青い花をムシャリンドウ(あるいはドラゴンヘッド)と同定するのには実物と違いすぎているように見える。その一方で、それを青系統の色の花を咲かせるサルビア属の何らかの植物(ヤクヨウサルビアを含め)と断定するのも、ためらわれる。というのも、《不忍池図》の青い花はムシャリンドウ属とサルビア属のちょうど中間のような形をしているからである。言い換えれば、ここに描かれているのとまったく同一に見える種は現実には存在しない。だからこそ、研究者たちは青い花の種名を同定することに苦心してきたと言える。
直武の他の絵画や写生帖を見ると、動植物の形態を見たままに、できるだけ正確に捉えようとする態度が感じられる。ただし、今橋が指摘しているように、江戸中期の写生図には、他人が描いた絵を模写したと考えられるものが含まれており、画家が常に実物を前にして花や虫を描いていたとは限らない。(*15) そうだとすれば、《不忍池図》の青い花がムシャリンドウにも、サルビア属の何らかの種にも十分に似ていないように見える理由がいくつか想像できる。第一の可能性は単純に、実物から写生する際に、直武が手を抜いたということである。その場合、外国から渡来した見慣れない植物だったゆえに、正確に特徴を掴めなかったということもあるかもしれない(もちろんその逆もあり得る)。あるいは、実物を見ずに、他者が作成した図を元に描いた可能性も捨てきれない。もしそうだとすれば、(実物を前に写生した場合以上に)わざわざこの植物を選んだ理由がなくてはならないだろう。その場合の理由として考えられるのは、キンセンカとサルビア属(およびムシャリンドウ属)の植物がともに薬草として用いられてきたということである(特に女性の病気に効くとされた薬草であったことから、山本は佐竹家の縁談と何らかの関係があったのではないかと推測している)。(*16)
直武が実物から、さらには、これらの鉢に実際に植え付けられた状態で写生していたとしても、この理由を排除する理由はない。その場合、茶色い鉢は中国の薬用/観賞用の園芸植物、白い鉢がヨーロッパの薬用/観賞用の園芸植物という風に割り振られていたと考えることもできる(ただし上で述べたように、直武がキンセンカをヨーロッパの薬草として認識していたかどうかは定かではない。ヤクヨウサルビアについても同様である)。そもそも《不忍池図》自体が、日本の風景に、中国の新様式として伝えられた沈南蘋(しん・なんびん)風の花鳥画の技法とモチーフが組み合わされ、遠近法と陰影法という西洋画法の味付けとともに描かれた、和・洋・漢のハイブリッド様式絵画であったことをふまえれば、植物も洋と漢に分けて鉢に植え付けられていたとしても、特におかしなこととは思われない(ただし、もしそうだとすれば、青い花は在来種のムシャリンドウであってはならないことになるが)。
芍薬と班婕妤が重ね合わされているとする今橋の説と同様に、山本による四季絵としての解釈も、芍薬、キンセンカ、ヤクヨウサルビアが地植えではなく、鉢植えの状態であることの必然性を必ずしも説明しない。(*17) 見立絵あるいは四季絵として成立させるためだけであったら、地植えの状態で描かれていたとしても問題ないはずだからである。いずれも地植え栽培が可能な植物であり、仮に不忍池のほとりに植えられた状態で描かれたとしても、現実にあり得ない光景というわけではない。にもかかわらず、それをわざわざ鉢植えの状態で描くことにどのような意味が込められたのだろうか。
鉢植えである理由
1999年の論文で仲町啓子が考察しているのが、まさにこの問題である。仲町によると、一八世紀中頃に中国の文人趣味が日本でももてはやされ、文人の書斎(=文房)をテーマにした絵が描かれるようになった。文房に置かれるモチーフの中には盆石や東洋蘭の鉢植えが含まれ、秋田蘭画には文房を描いた作例も存在することから、《不忍池図》の植木鉢もその源は文人趣味にあるのではないか、と仲町は論じている。つまり、文房モチーフが絵の題材として確立して初めて、植木鉢が主役であるような絵が描かれ得たというのである。(*18)
ただし、今橋も『秋田蘭画の近代』で不満を示しているように、仲町の解釈は《不忍池図》においてなぜ、植木鉢が文房内ではなく屋外に、しかも不忍池のほとりに置かれていなければならないのかを説明しない。(*19) 橋本のエッセイが強調していたように、池へと向かう視点と鉢へと向かう視点がちぐはぐであることが、《不忍池図》においてはむしろポイントになっているのだとしたら、鉢と池の併置に特別な意味を探し求める必要はないのかもしれない。だが、この絵では、二つの鉢は池を背にしてただ描かれているというよりはむしろ、池のほとりに確かに「置かれて」おり、池と鉢が互いにまったく無関係というわけではない。その置かれている感じを生み出しているのが、白い鉢が土の上に投げかけている、若干わざとらしいまでに濃い影と、左右に引き伸ばされているようにも見える茶色の植木鉢の重量感である。つまり、植木鉢は周囲の空間から完全に遊離しているわけではなく、少なくともそれが置かれた地面とは同じ空間に存在していることを、この絵は訴えかけている。その上で、池へと向かって下がってゆく土手が水面と接する面を描かないことで(それは鑑賞者の位置からは見えない面であるから、描かないことに合理的な理由がある)、植木鉢(とそれが置かれた地面)の空間と池の空間を、接続すると同時に切断するという処理が巧みに行われている。
この空間描写の処理を考えれば、植木鉢の左側に見える長さの異なる二本の杭は、一見どうでもいい細部であるようで、実は画面構成上、重要な役割を担わされていることに気づく。というのも、もしこれらの杭がなければ(指で隠してみればよい)、画面上の水色と黄土色の面の境界が、水際を表しているようにも見えてしまうからである。言い換えれば、杭があることではじめて、鑑賞者からは見えない「裏側」(池の中から画家=鑑賞者の立っている方を向くことで初めて見える面)があることが示唆されるのである(画面左端の雑草もそのことを念押ししている)。
なお、仲町は論文の注で興味深い指摘を行っている。芍薬が植えられている茶色の鉢が、ヤコブ・クーマン(Jacob Coeman)が1665年にオランダの植民地バタヴィア(現在のジャカルタ)で制作した油彩画《オランダ東インド会社上席商務員ピーテル・クノルとその家族の肖像――カピタンの娘コルネリアとその娘たち》(アムステルダム国立博物館蔵)に描かれている植木鉢と似ているというのである。(*20) この絵に描かれたその他の調度品から、鉢も東南アジア製ではないかと仲町は推測しているが、17世紀オランダの静物画(例えばヤン・ブリューゲルによるもの)にも同様の、レリーフで模様がつけられた素焼き鉢が描かれていることから、デザイン自体はオランダ風とも考えられる。コルネリア・ファン・ナイエンローデは平戸のオランダ商館長の父と日本人の母親のあいだに1629年頃生まれ、1633年の父の死後、姉とともにバタヴィアに移住した。(*21) コルネリアの左に立っているのがバタヴィアで結婚した夫ピーテル・クノルであるが、画面左の後方に並べられた茶色い鉢と東洋風の花瓶の横並びの配置は、ピーテルとコルネリアの配置を形態的に反復している。もしこれが意図的なものだとすれば、オランダ人男性と、日本人を母に持つ女性の人種のコントラストを、オランダ風の鉢と東洋風の花瓶で比喩的に表現していると解釈することができるかもしれない。
直武が茶色の植木鉢をオランダ的なもの、あるいは西洋的なものとして認識していたかどうかはわからない(もうそうだとしたら、なぜ彼はそれを中国由来の園芸植物と組み合わせたのだろうか)。そもそもここに描かれているような鉢が実在し、それを目の前にして彼が《不忍池図》を描いたのかどうかも不明である。他の絵から模写したのかもしれないし、想像上の鉢かもしれない。ただ、植木鉢を目にする機会は少なくなかったはずである。《不忍池図》が制作された18世紀後半には、園芸の欠かせない用具として、すでに植木鉢が広く流通していた。『花開く江戸の園芸』展(2013年)の図録解説によれば、植木鉢が普及し始めるのは享保~元文年間(1716-1740年)のことである。(*22) 最初は日用品の器の底に穴を開けた転用鉢が用いられ、やがて、植物栽培を目的とした陶磁器が生産・販売されるようになった。《不忍池図》でキンセンカとムシャリンドウ(またはヤクヨウサルビア)が植えられている白い鉢は上端に水平方向に伸びる縁があることから、植木鉢の商品化とともに現れ、「奇品」愛好家たちに愛用された「白鍔(しろつば)」タイプであるように見える。(*23)
植物を容器に入れて育てること自体は、江戸時代以前から行われていた。依田徹によれば、室町時代の絵巻物『慕帰絵詞』に、素焼きの鉢に植えられた松や梅の「鉢木(はちのき)」が庭先に置かれた様子が描かれている。盆の上に石を配置し風景に見立てる「盆山」には生きた植物が植え付けられることもあり、鎌倉時代の絵巻物『春日権現験記絵』にはその一例が見て取れるという。(*24) 一方、江戸中期の植木鉢の量産は、園芸が大衆化し、商品経済の中に組み込まれたことを意味していた。植木鉢に入れることで、植物の販売は飛躍的に容易になった。園芸用具としての植木鉢の普及は、栽培方法の多様化とも関連していた。平野恵によれば、『草木奇品家雅見(かがみ)』(1827年)に、四谷の朝比奈なる人物が天明年間(1781-1789年)に、寒さに弱い舶来の植物を育てるために唐むろ(現在の温室に相当するもの)を考案したことが記されている。(*25) 唐むろは冬に植物を避難させる場所であるから、唐むろと植木鉢の利用はセットになっていたはずである。つまり(現在でもそうであるように)植木鉢は日本の気候では地植え困難な植物を育てるために必要とされ、普及した用具でもあった(ただし唐むろの利用について図入りで解説したのは岩崎灌園の『草木育種(そうもくそだてぐさ)』(1818年)が初めてであり、それ以前に温室栽培がどの程度一般的であったかは定かではない、と平野は述べている)。
植木鉢という記号
まとめるならば、植物を容器に植え付けて、それを(しばしば容器をひとつの自然風景に見立てて)美的観賞の対象とすることは、遅くとも鎌倉時代には行われていた(依田によればそれらが一般に「盆栽」と呼ばれるようになるのは明治時代に入ってからだという)。それに対して、江戸中期にはそれとは異なる理由で、すなわち、園芸植物の商品化と栽培技術の高度化をきっかけとして、植物を鉢に植えることが行われるようになった。後者は前者を排除しない(どのような植木鉢も盆栽に使用することができる)。だが、後者が常に前者に該当するわけでもない(特別な美意識がなくとも、植物を鉢に植え付けて育てることができる)。植木鉢はありふれたものとなり、鉢植え=盆栽ではなくなったのである。18世紀末から流行し始める万年青(おもと)やカラタチバナなどの「奇品」は確かにある特異な美意識を伴っており、それらも鉢植え栽培を前提としているが、そこでは盆石(盆栽)のように容器内部の空間における見立てはさほど生じておらず、植木鉢はあくまで植物の保護装置として役割が強い。
このように、江戸中期は植木鉢が普及するとともに、植木鉢自体が持つ記号的意味も多様化していった時代であった。では、あらためて《不忍池図》の二つの植木鉢を見てみるならば、そこにはどのような意味が込められていると言えるだろうか。上で述べたように、《不忍池図》は何らかの見立てが行われたイメージとして解釈されてきた。直武が《不忍池図》を描いた経緯について記した新史料でも発見されない限り、彼が本当のところ何を意図していたのかはわからない。もしかすると、お気に入りの植木鉢と風景を描いて、ただ寄せ集めただけの絵かもしれないのである。しかし最終的に彼の意図がわからなかったとしても、作者がどのような知識を持ち、どのような文化的背景とともに制作していたのかを知ろうとすることは、作品に対する私たちの理解を深めるのを助けてくれ、そこにまさに美術史という学問の意義と醍醐味がある。だからこそ、美術史家は画家の意図を探ろうとするのである。
その一方で、《不忍池図》を見立てのイメージとして見ているのは、私たち自身であるとも言える。《不忍池図》に限らず、ある絵を前にして、そこに描かれている以上のものを見ようとするのを誰にも止めることはできない。美術史的に考えても、「誰が」見立てたかというのは微妙な問題である。それは次のような状況を仮定してみればわかる。第三者が直武に不忍池を背景に芍薬の鉢植えを描いてほしい、とモチーフと構図を厳密に指定したうえで依頼した。絵が完成した後、実は芍薬は班婕妤の見立てなのだと依頼者は直武に明かした。この場合、直武は見立てを意図していたと言えるだろうか? あるいは次のような場合。完成した《不忍池図》を第三者が見て、「これは四季絵ですか?」と直武に尋ねる。意表をつく質問だったが、「なるほど、そのように見ることもできるな」と直武は納得し、以降は四季絵としてこの絵を人に説明することにした。同様の例はいくらでも思いつくだろう。このように考えてみれば、直武本人がどう考えていたのか、というのは、この絵を観賞するうえで必ずしも本質的なことではないのである。
だがそれを認めたうえで強調しておきたいのは、《不忍池図》は見立てとして見たとき、特異な構造を持っているということである。それはつまり、この絵自体が見立てのイメージであると同時に、(現実世界において)見立てが行われた場面を描いたイメージであるとも捉えることができる、ということである。すなわち、誰かが班婕妤に見立てた(あるいは、そこまで具体的でないとしたら、「美女」に見立てた)芍薬の鉢を不忍池のほとりに置き、それを通りすがりの直武が描いた可能性もある。あまりありそうもないシナリオだが、この絵自体にそれを否定する要素はない(ただしその場合、彼は水面に見えたはずの蓮の葉を省略したことになるが)。見立ての絵なのか、それとも、見立ての場面を描いた絵なのか。この点に関しては今橋も「「蓮池」である不忍池は班婕妤を想起させ、「結約(ヂエイエ)」[引用者注:男女の愛を結ぶこと]かつ「命婦」である芍薬の花鉢を、彼をして池畔に置かしめたのであった」と曖昧な書き方をしている。(*26) この曖昧さは美術史研究が進展すれば解決するような問題ではない。この絵の図像自体がそのような両義性を含んでいるのである。《不忍池図》は次のような問いを投げかけている。見立てを生み出すのは、植木鉢を「置く」ことなのか、それとも、それを「描く(表象する)」ことなのか?
《不忍池図》が現在の「植木鉢のある風景」一般に対して示唆的なものとなるのは、まさにこの点においてである。植木鉢に伝説の美女のイメージを重ね合わせて飾るというのは、確かに今ではあまり一般的な行為とは思われない。だが、私たちが玄関先やベランダや路上に植木鉢を置くとき、しばしばそこでは植物の美しさを愛でる以上のことが行われているのではないだろうか。それは端的に言えば、植木鉢を置くことで周囲の空間=風景を何か別の場所、「ここではないどこか」に見立てているということである。蕎麦屋が店先に松の盆栽を置くとき、あるいは美容院が軒下をゼラニュームの鉢で飾るとき、そこではそれぞれ和風の空間と、洋風の空間が演出されている。
もちろん、現代日本の建物の多くが何らかの文化的・歴史的参照源を持っており、それが和風であったり、南欧風であったり、東南アジア風であったりすることを考えれば、植木鉢で和や洋の雰囲気を生み出すことも(洋服と和服を使い分けたりするのと同じく)日本人が日常生活において行っているデザイン上の選択の一部にすぎないとも言える。だが、植物の場合、それが実際に中国やヨーロッパやアメリカ大陸から移入された生物であることによって、単なる「〇〇風」である以上の重みをもっている。つまり、それは装飾やデザインの問題であると同時に、現実の地理的・文化的境界を越えた混交でもある(例えば、イングリッシュ・ガーデンが日本の公園の一角に作られるとき、それはイギリスの(野生のものとは限らない)植生が部分的に移動してきたということでもある)。そして、まさにこの理由により、植物による空間=風景の「見立て」作用は強力なものとなるのである。
それと同時に、置かれた植木鉢が空間=風景に与える作用は、その空間がイメージ化される(=絵に描かれたり、写真に撮られたりする)ことによって、より明白なものになることも重要である。《不忍池図》が見立てのイメージなのか、それとも、見立ての場面を描いたイメージなのか確定不可能なのと同様に、「植木鉢のある風景」における見立ての空間が、イメージの内部と外部(映画用語で言う「profilmic=前映画的」な空間)のどちらに存在していたのかについて、二者択一で答えを与えることはできない。それと同じことは、路上観察の写真一般にも該当するだろう。路上観察者たちはしばしば「発見」の重要性を強調するが、例えば、路上観察の写真に写っている対象に「わび・さび」が感じ取られるとき、その特質が写真イメージ上で初めて生じたものなのか、それとも、写真が撮られる以前から物体に属していたものなのか、はっきりしたことは言えない。「植木鉢のある風景」を、ひいては路上観察の写真を、被写体に対して「透明」なものとみなすことはできないのはそのためでもある。言い換えれば、絵であれ写真であれ「植木鉢のある風景」を描き出すことは、風景に予め与えられている意味を受動的に読み取る行為であるというよりはむしろ、(作者がそれを好むと好まざるとにかかわらず)風景に能動的に意味を与える実践なのである。
*1 同作品の拡大図版は以下を参照。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151921
*2 小田野直武の経歴と主要作品については以下を参照。サントリー美術館編『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』サントリー美術館、2016年。
*3 稲賀繁美「透視図法の往還――徳川洋風画から西欧ジャポニスムへ」『絵画の東方』名古屋大学出版会、1999年、92頁。
*4 同上、96頁。
*5 今橋理子『秋田蘭画の近代:小田野直武「不忍池図」を読む』東京大学出版会、2009年。
*6 橋本治「遠いもの 小野田直武筆「不忍池図」」『ひらがな日本美術史6』新潮社、2004年、140頁。
*7 同上。
*8 なお「見立絵」とは狭い意味では、当世風の身なりの人物に古典の登場人物や故事が重ね合わされた浮世絵のことを指す。ウェブ上の解説として以下を参照。https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/53332036409.htm
*9 山本丈志「四季絵「不忍池図」について考えられること」『秋田美術』41号、秋田県立近代美術館、2005年、4‐18頁。
*10 『物類品隲』の該当ページは以下を参照。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555267/24
*11 山本丈志「秋田蘭画をめぐる、未着手の文化的背景」『国際日本学(法政大学国際日本学研究所研究成果報告集)』第8号(2010年)、275‐289頁。なお現在も漢方薬として用いられている「丹参」の学名は「Salvia miltiorrhiza」であり、「ヤクヨウサルビア」の学名は「Salvia officinalis」であるから、同じサルビア属ではあるが、種としては別種である。
*12 例えば、以下の熊本大学薬学部薬草園のデータベースを参照。http://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/detail/004866.php
*13 『日本国語大辞典』(第2版、小学館)の「きんせんそう」の項目は、1713年の季語注釈書『滑稽雑談』に「金盞花 時珍本草曰、金盞草、一名長春花」の用例があることを解説している。『本草綱目』を元にしつつ、自らの観察による知見を加えて書かれた貝原益軒の『大和本草』(1709年)にも「金盞花」の項目があるが、原産地についての言及はない。該当ページは以下を参照。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557356/8
*14 以下のブログ中の記事を参照。「花盛屋敷からの花便り」(https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2018/08/1.html)。同ブログにはムシャリンドウ属を描いた図やその種名について、大変興味深い解説があり、江戸時代の博物図譜に描かれたムシャリンドウ(「セイラン」とも呼ばれた)もいくつか紹介されている。それによると、水野元勝の園芸書『花壇綱目』(1681年)にすでに同種に対する言及がある。
*15 今橋理子「小田野直武写生帖の意味」『江戸の花鳥画:博物学をめぐる文化とその表象』講談社学術文庫、2017年、102‐153頁。
*16 山本「四季絵「不忍池図」について考えられること」15頁。
*17 土井康弘によれば、平賀源内主催の物産会では日本産、中国産の植物に加えて、オランダ経由で伝えられた野菜や香草も展示されたという。以下を参照。土井康弘『本草学者 平賀源内』講談社選書メチエ、2008年、37‐41頁。
*18 仲町啓子「日本近世美術における文人趣味の研究 二――小田野直武筆「不忍池図」と盆花図の流行――」『実践女子大学美學美術史學』14号(1999年)、19‐42頁。
*19 今橋『秋田蘭画の近代』110頁。
*20 同絵画の図版はアムステルダム国立博物館の以下のページを参照。https://www.rijksmuseum.nl/en/collection/SK-A-4062
*21 コルネリア(コルネリヤ)およびクーマンの肖像画については、以下を参照。中山千代『日本婦人洋装史』吉川弘文館、1987年、86‐94頁。なお、同書によればコルネリアと娘たちが身に着けているのは、本国で流行していたオランダ様式の服装だということである。
*22 江戸東京博物館編『花開く江戸の園芸 江戸東京博物館開館二〇周年記念特別展』江戸東京博物館、2013年、62頁。
*23 「白鍔」については以下を参照。佐久間真子「江戸の園芸とやきものの植木鉢」、たばこと塩の博物館編『江戸の園芸熱:浮世絵に見る庶民の草花愛』たばこと塩の博物館、2019年、20-21頁。
*24 依田徹『盆栽の誕生』大修館書店、2014年、5‐6、14‐15頁。
*25 平野恵『温室(ものと人間の文化史152)』法政大学出版局、2010年、30‐36頁。
*26 今橋『秋田蘭画の近代』231頁。
甲斐 義明 専門は写真史および近現代美術史。ニューヨーク市立大学大学院センター博士課程修了。現在、新潟大学人文学部准教授。著書に『時の宙づり――生・写真・死』(IZU PHOTO MUSEUM、2010年。ジェフリー・バッチェン、小原真史との共著)、編訳書に『写真の理論』(月曜社、2017年。ジョン・シャーカフスキーほか)がある。