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連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
写真は私たちの生活に身近であるとともに、写真について検討するためのトピックは日々の暮らしの中にも潜んでいます。この連載は、倉石信乃、清水穣という2人の写真評論家に、日常的なモチーフを介して、そこから見つけられる写真のあり方について述べてもらい、写真について複数の視座から考えてみようというものです。共通のテーマから、それぞれどのような写真性が語られるのか、発見と思考をともに愉しんでもらえたらと思います。
(企画/編集:松房子)
連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
第5回 Google ストリートビュー
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ストリートビュー、「風景の死滅」
文:清水穣
2021年の節分は124年ぶりに2月2日であった。節分は立春の前日と定義され、立春とは24節気の一つであり、24節気とは、地球の公転軌道を24分割したそれぞれの地点を指すそうである。地球の1公転を1年と数えるが、それはグレゴリオ暦の1年とは一致しない。宇宙の運動を暦のシステムで近似する結果、小さな誤差が累積するので、定期的に閏年や潤月を設けて誤差を調整する、それに応じて暦上の節気がずれ、節分もずれるのだ、と。
グーグルマップ(以下GM)、グーグルストリートビュー(以下GSV)の開発者の一人による回顧録が「Never Lost Again」と題されているように (*1) 、約10年前から、我々は道に迷うという経験を忘れてしまった。旅は、少なくとも電波の届く範囲では、その全行程に渡って予見可能で予定可能なものとなった。逆に、旅に出かけるにあたって、ホテルの環境と位置、交通手段、さらには目的地の位置などを検索せず、GSVで予め下見をしないことのほうが難しい。GSVの写真世界は実際の現実でないと解っていても、ネットワークの電波が地球を漏れなく覆うにつれ、そしてGM・GSVの精度が上がるにつれ、旅はGSVを越えなくなっていく。それは出逢いを失い、予定・予見された旅程の消化となり、つまり旅ではなくなった。
デジタルな世界とは、一人一人が、アノニマスではあっても特定されている、すなわち、もはや「誰でもない者」にはなれないが、「誰でもよい者」の一人として特定されている世界のことだ。位置がGPSで認識されているなら、それは標的として特定されていることである。首には縄が巻かれており、「誰でもよい」程度に応じて縄が伸縮する範囲が、われわれの自由である、と。しかし反対に、認識されず、特定されず、縄がついていない者がありうるだろうか。GMとGSVに限らず、すべての地図は地政学的な支配者の視点、神の視点から作られるが、その視点から支配する(地図を利用する)ために最も本質的な条件は、地図上の現在地の特定、すなわちGPS(Global Positioning System)である (*2) 。そしてGPSが高度に政治的軍事的なシステムに成長した現在、権力闘争はそのシステム上で演じられるだろう。そのとき権力者にとっては、自分だけGPS不明の「誰でもない者」になることが重要であるが、自分の現在地を欠いたままGPSを利用することはできない。従ってそれを偽ることになり、偽りのGPSを発信する技術はとうぜん標的のGPSにも転用できるから、結局、権力闘争の果てにはすべての標的のGPSが信じられなくなり、GPSは闘争の抑止力として機能するに至るだろう。
100%の可視化を目指す監視カメラやスパイ衛星の画像とは異なり、GSVの面白いところは、見渡しの効かない地上に降り立ち、その不可視性を通じて擬似的なリアリティを演出することにある。つまり、GMからGSVへの展開は、神として支配するためには地上に降りなければならないというGPSシステムのパラドクスを、リアルタイムではない写真世界の中で無害化することであった。GSVで覗き見できる街の風景は過去の景色にほかならないが、それはGPSシステムの囚人に、自由な降臨の感覚を与えるのである。降り立てるストリートは決められているとはいえ、地球上の、おそらく生涯で一度も行くことのない世界の片隅に至るまで(パタゴニアの田舎道からヨハネスブルクのスラム街まで)カバーされており、360度の写真によって、それぞれの街角で周囲を見回すこともできる。また更新の頻度次第だが、場所によっては過去の写真が蓄積されているから、同じ街角で去年、3年前、5年前…と時を遡れる(東京の中心部など)。まさにGSVによって世界は隅々まで写真化し、その写真が刻々と更新されることで過去すら生まれている。旅を失ったわれわれは、写真でできた緻密で広大な過去の世界に遊ぶ自由を手に入れた、と。
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GSV、巨大資本によって構成された街路の風景(ストリートビュー)、それは「どこにもない風景(ユートピア)」ではなく、「どこにでもある風景」である……聞き覚えがないだろうか。40年前、ディスカバー・ジャパン、忘れられていたあるがままの日本を発見しよう、などと宣伝されて、旅が旅でなくなり、国家=資本によって日本各地のあらゆる風景は「一様にのっぺりと塗り込められて (*3) 」いった、と。「風景とは国家権力のテクスト」にほかならず、「権力が自らをかくしつつ己を指さす仮面」(津村喬 (*4) )である、風景=国家=資本を撃て、風景を批判せよ、と。そう、60年代末から70年代はじめにかけて一世を風靡した「風景論」である。「風景映画」と呼ばれた足立正生(ほか)の『略称連続射殺魔』(1975年)、同映画の制作にも携わった松田政男の『風景の死滅』(1971年)、両者と交友関係のあった中平卓馬にも風景論がある(「風景への叛乱―見続ける涯に火が…」1970年)。
モダニズムの基本的な骨格は、「(対立する2項―美醜、内外、高低、貧富、等々―による)差異化されたシステム」versus「その外部(第3のもの)」という二元論である。左項には表象や言語を始めとする人間の文化が含まれ、右項はそこに収まらない外部が措定され、自然、裸の現実、あるがままの世界、物自体…といった言葉で呼ばれる。これはシュールリアリズムやドキュメンタリーを支える図式であったし、50年代から60年代にかけてのリアリズム写真やドキュメンタリー映画の根底にある思考様式であった。その上で、主に小川紳介流のドキュメンタリー(『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』『現認報告書 羽田闘争の記録』など、ともに1967年)に対する批判として現れた1970年代の風景論は、この二元論が失効する転換期の議論である。つまり、資本や国家のシステムがまさにその「外部」を駆動力として取り込み自己展開するようになった時代の産物であり、そのようなシステムの構成する社会の表層が「風景」と呼ばれた。従って風景の批判とは、風景によって閉ざされた「外」をいかに回復するか、政治権力に操作される以前の「あるがままの現実」をいかに見出すべきかという抵抗の思想である。
さて、60年代の思想家に影響を与えた花田清輝の「林檎に関する一考察」は、「あるがままの林檎」に託してリアリズムを論じた有名なエッセイである。芸術家は「あるがままの林檎」と対決しなければならないが、それはイブの林檎(知恵の木の実、知性)でもなく、パリスの林檎(美の徴、感性)でもなく、ニュートンの林檎(自然法則)でもなく、ウィリアム・テルの林檎だ、と。人間の知性と感性の世界(左項)でもなく、永遠の自然(右項)でもないテルの林檎は、上の二元論に場所を持たないかのように見える。しかし、
しかし、イヴの林檎のために楽園を追放され、パリスの林檎のために苦難の道をあるき、物体そのもののもつ不思議なすがたと一度も対決したことのない人間に、どうしてテルの林檎を描きだすことができよう。試みに、かれらは、いっぺん、きりきりと弓をひきしぼり、百歩の距離をへだてたところで、日の光りを浴びて燦然とかがやいている、自分の子供の頭の上におかれた真赤な林檎を、本気になって狙ってみるがいいのだ。あるがままの林檎が、すがたをあらわすのは、そういうときにかぎるのである (*5) 。
復活すべき「あるがまま」の「外部」は、現に存在してわれわれの生死を条件づけている文化のシステムでない事はもちろん、その外側で、人間存在と無関係に、永遠に存在し続ける自然宇宙(「海に溶け込む太陽」)ではない。しかし花田は、文化の側から見れば人間の歴史の外に存在するかに見える「永遠」なるものの、歴史性を考えているのだ。「対立物を、対立させたまま、統一する」という彼の有名なテーゼは、対立物が世界の一部ではなく、2つの世界そのものであるときに意味を成す (*6) 。内部の世界があり、その「彼方」や「皮下」に「外」がある、というような二項対立の図式ではなく、イヴとパリスとニュートンの世界がひとつの世界(西洋的世界像)をなし、また別の「イヴ」と「パリス」と「ニュートン」の世界が、他の世界をなす、と。それぞれの世界は、それぞれの文化に条件付けられた時空間が「きりきりと」ひきしぼられる歴史のその特異点において、互いに接触し、その臨界面において、あらゆる名詞は翻訳不可能かつ翻訳不要な固有名詞に戻る。世界同士の接触は、それぞれにとって外部的な瞬間(「歴史の現在時」)の到来であり、そのとき林檎は「あるがまま」のモノに還るのだ。
この発想が実にベンヤミン的であることは言を俟たないだろう。それを社会主義リアリズムと呼ぶかどうかはともかく、花田のリアリズムは、「政治の美学化に対して、コミュニズムは芸術の政治化をもって応える」とベンヤミンが『複製技術時代の芸術』の末尾に書いた (*7) ときの「芸術の政治化」と共鳴している。
風景論の論客、松田政男(1933-2020)もまたその『風景の死滅』の終章で、同じ批判にたどり着く。
私の独断によれば、いわゆる<道中映画>すなわち<風景映画>の原型は、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』であるが、しかし思うに、『気狂いピエロ』がつくられた時代は未だ幸福な時代だったのだ。そこにおいても、確かに、風景は去り、人間たちも去った。しかし、<自然>は残った。「見つかったわ!/何が? 永遠が/海に溶け込む…/太陽だわ」というラストシーンのラムボオに拠った対話がそれを暗示する。1965年、まさにゴダール自身が言うように、その海は「ロマンチックでも、悲劇的でもない自然」として「現存」しえていたのである (*8) 。
「ヌーヴェルバーグの最高傑作」は、「ロマンチックでも悲劇的でもない」「あるがまま」の自然が、すなわち<une image juste> ではなく<juste une image>としての世界が、まだ存在すると信じられた時代の産物だ、と。著書『風景の死滅』は、「風景論」を、決して死滅しないものとしての資本=国家の論として再構成する必要を説いて、やや肩透かし的に終わるのだが、それは風景(国家=資本による描き割り、仮面)を破壊すれば、本当のあるがままの世界=人間の消えた永遠の自然世界がたち現れる、というファシストの美しい夢に加担しない決意であろう。ベンヤミンの先の発言に先立つ箇所には、その本質がはっきりと記されていた。「<芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも>とファシズムは言い[…]戦争に期待する。[…] 人類の自己疎外の進行は、人類が自分自身の全滅を第一級の美的享楽として体験するほどになっている。これがファシズムが進めている政治の耽美主義化の実情である。(*9) 」
*1 Bill Kilday, Never Lost Again: The Google Mapping Revolution That Sparked New Industries and Augmented Our Reality (Harper Business, 2018)
*2 GPSは経度と緯度のシステムに従っている。周知のように、地球はその猛烈な自転速度のせいで赤道側に膨らんだ形態をしているから、GPSはその形態を最も近似的に記述する数式に基づいた楕円体の座標系なのだろう。つまりグレゴリオ暦のように、必ず誤差が生じているはずだ。その歪みはどこへ行くのだろうか。
*3 中平卓馬「風景への叛乱―見続ける涯に火が…」『見続ける涯に火が… 批評集成1965−1977』(OSIRIS、2007年)128頁。
*4 松田政男『風景の死滅 増補新版』(航思社、2013年)300頁より引用。
*5 花田清輝『アヴァンギャルド芸術』(初版1954年/講談社文芸文庫1994年)142頁。風景論や花田清輝のリアリズムは、2021年の現在から見れば、まずは古臭いかもしれない。「学者たちによる本格的な研究書を前にしたとき、花田清輝のアヴァンギャルド芸術理論は、そのまわりをひらひらと飛び回る華やかなレトリックをはぎとってしまえば、かなり単純で、図式的である」、と(『アヴァンギャルド芸術』文庫版解説)。しかし「学者たち」の扱う込み入った内容を、分かりやすく図式で説明している作者に対して、「図式的」で「単純」と応じるのは不毛だろうし、無駄口をたたく者が好んで口にする「細かな差異を大切にする」「歴史の多様性と複雑性を蔑ろにしない」「あれかこれかで決めてしまわない」議論とは、図式以前の「自明の理」(花田の第一評論集)だろう。
*6 そうでなければ、このテーゼはオーウェル流の、あるいはジジェクが共産主義社会のシニカルな理性とみなした「二重思考」に陥るだけであろう(花田は文化大革命に共感していたそうであるが)。
*7 Walter Benjamin, Gesammlte Schriften, Band I.2. (Frankfurt am Main: Suhrkamp,1974) 508.
*8 松田政男『風景の死滅 増補新版』(航思社、2013年)299-300頁。
*9 注7に同じ。翻訳は『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)629頁に拠った。
清水穣 美術評論家、写真評論家、同志社大学教授。主な訳書・著書に『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』(淡交社、増訂版2005年)、『シュトックハウゼン音楽論集』(改訂新版2002年、現代思潮新社)、『白と黑で―写真と…』(現代思潮新社、2004年)、『写真と日々』(同、2006年)、『日々是写真』(同、2009年)、『プルラモン 単数にして複数の存在』(同、2011年)、『デジタル写真論』(東京大学出版会、2020年)など。定期的に内外の展覧会図録や写真集、「美術手帖」「陶説」といった雑誌に寄稿している。
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あらかじめ起動したグーグル・アース(GE)からグーグル・ストリート・ビュー(GSV)へ転じる時の動き、まず視点が上空にありその高みから滑らかに降下して着地する一連の映像に、擬似的ではあれ軍事演習的な感興を覚えることができる。またグーグルの検索ボックスに地名や住所を入力しグーグル・マップ(GM)をブラウズしてからGSVへ移行する一連の展開、つまり文字から地図へ、さらに映像への転換には、たび重なる切断と接続がもたらす眩暈がある。GSVを仲立ちにする視覚的な快は、複数の次元をまたぎ行き来することによって生じるといえるかもしれない。文字と地図と映像の間を行きつ戻りつして、最終的には現実の風景に対峙すること、それはまさに軍事的な視線に固有の感覚の発露ではないか。GSVを可能にしているテクノロジーと、我々の身体とが同期することが快なのではない。そうしたテクノロジーに引き摺られながらなされる「同期のマゾヒズム」が快というべきで、その限りにおいてGSVはマシニズムに美を見出す、モダニズムの伝統を継承するミディアムであり画像だ。
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GSVでは、一つの地点から前後左右に置かれた矢印をクリックして、ずっと歩行というか走行しつづけることができる。どこまでも進んでいけるようにみえるが、この擬似的な散歩やジョギングに難があるとすれば、立ち止まることはできても、たいてい道の中央にしかいることができないことだ。横に歩くことや、道の「奥」に踏み込むのは苦手のようである。道を曲がるのもあまり得意ではなく、現実に歩くような訳にはいかない。家並み、ファサードの群れを散漫に見ていたいときには、立ち止まらなければならない。道の真ん中を行くのだから、移動時には左右の家の連なりなどは明確に見えていない。かくしてGSVの移動では、いつしか歩くか走るかすること自体が自己目的化していることになる。だからあらぬところでデッドエンドに突き当たるか、その前に移動に飽きてしまう。GSVでは、倦怠と幻滅も多くもたらされる。このことは不自由さと関係があり、テクノロジーがもたらすものだ。その倦怠と幻滅という経験ゆえにすでに写真的である。GSVは写真史の正統的な嫡子である。
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GSVはもはや十分すぎるほどに日常化し、ありふれてはいても役に立つ視覚経験をもたらしている。見知らぬ現地を訪れる用事がある際に、予習するにはとても便利なツールだ。代わりに復習にはあまり馴染まないかもしれない。また、現地で現在進行形で目的地を探す時などに、GMほど依存的に使われることはないだろう。予習用のミディアムとしてのGSVは、不動産情報を精査する場合にその威力を発揮する。引っ越しを考えて家探しをする場合に物件を調べていく時などに、相場よりも安く表示されていると気づくことがある。これは、と思えばいずれ当の場所まで実際に出向かなくてならないのだが、その前にできることはかなりある。物件の住所をグーグルの検索ボックスに入れて、まずGMを眺めてから必要に応じてGSVへ移行することから始めよう。なるほど川沿いなのか、崖下なんだな、墓地、産廃施設、調整池の近くか、送電線や鉄塔の真下ではないか、なんとなく活気がない界隈だ、などとつぶさに物件のある付近の環境を理解できる。GMだけでなく電子データ化されたハザードマップなどを併用しつつ、自室に居ながらにして、不動産物件の賃料や価額の意味するところをかなり正確に判断しうる。ただしGSVはその補助的な手段として有益なのだが、つねに予習的、保険的な情報を獲得することに眼目がある。保守的なミディアムとしてのGSV。
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しかし何と言ってもGSVは、必ずしも現地を訪れる差し迫った必要がない場合に、つまり暇つぶしに大いに役立つ。かつて住み、いまはなくなった実家の周辺の、近頃の風景をGSVで見ることもしたことがある。典型的な使用法だがそれで容易に判明するのは、GSVを見ることは時に、感傷的であると同時に窃視症的な行為であることだ。しかも後ろめたさを感じていながら、そう感じていることをあっさり忘れさせもする集中が生じるのである。麻痺の常態化ゆえに罪深いというべきだろうか。
プライヴァシーの尊重という条件が映像環境に欠かせないものとして定着したにもかかわらず、GSVのごときものが何食わぬ顔で当の映像環境に自らの居場所を大きく占めている。窃視症的であるばかりか窃視そのものにも犯罪にも確実に利するような危うさを、あからさまに付帯している。にもかかわらず、われわれはみなそれに慣れてしまい、麻痺のただなかを生きて恥じることはない。
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GSVをパソコンの画面上でブラウズする前、あるいはブラウズしている最中でも、つねにGMを見る手続きを経てそこへたどり着く。GMの周囲にはよく当該の地点を写した、つまり地名に紐付けされた別の写真が配置される。それらの投稿写真の多くはたとえ匿名や変名であっても、撮影者の存在をあらかじめ刻印している。オーサーシップの観点において、GSVの機械的・匿名的な撮影主体の存在の仕方と、GMの投稿写真のそれとは、ブラウズ時の空間では並置される関係にあっても、画像形成の意味においては対照的である。
観者の「情動」のあり方はいつも、撮影者が誰であるかということとは独立して、写真のオーサーシップを顧慮しない一種の野蛮さと無軌道に結びついている。GSVとGMの投稿写真への没入を比較しても、必ずしもGSVの方が情動の刺戟において劣るなどとはいえない。むしろ当の徹底した記録性・匿名性が、予断を超えたしみじみとした情趣や、索漠とした感傷、時には強い嗚咽や慟哭さえもたらしうる、そんな根拠となりうるのだ。
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朝日新聞社の運営するニュース・サイト「withnews」は、泡沫のごとくSNSに浮沈する独語のうち、「噂になっている話題」に着目しすくい上げている。2021年1月7日付で松川希実記者が伝える「『グーグルアースに死んだ親父が…』一人の投稿から生まれたつながり」という記事は、1月24日現在月間ランキングで1位に付けている。あるツイッターの投稿者の暇にまかせたGE経由の実家訪問で、思いがけず亡父が写っているのを発見したというもので、投稿には60万件の「いいね」がついたらしい。多くの人々が同様の経験をGEやGSVを使って試み、家族と出会ったというのだ。
こうしてGSVおよびGEは、途轍もなく巨大な公的なアーカイヴの中で万人の定型的な用途に供される公共財かストックフォトのごとき画像でありながら、同時に極私的なヴァナキュラー写真でもありうることになる。飛びきりの偶然を引き寄せるファウンド・フォトの発掘現場としてのGEやGSVは、プライヴェートな視線との卓抜な同化能力によって、図らずも21世紀の「人間家族展」の出品作品にふさわしいような、「ヒューマン」な写真を生み出したのである。
だが、共感のごとき情動を瞬時にかつ容易にもたらし、しかも夥しい数の人々に共有可能にしてしまえるその力は、写真とテクストの危うくも既視感のある関係を想起させずにおかない。たやすく感染症対策を理由として主権の制限が実現されつつある2021年1月現在、マス・イメージと情動との接着面を固定的に形成する事例には、警戒してもしすぎることはない。ましてGM、GE、GSVや、SNSのプラットフォームはかかる接着面を絶えず拡張することで、後戻りできないほどに未曾有の、富と権力を形成してきたのではなかったか。
ただこの逸話で注目されるのは、結局GEやGSVの画像はその使用局面にあって、過去の時制に拘束されたものとなってようやく、ひとの心性にも及ぶ範囲の共有可能性や多数への訴求力を持つらしいということだ。つまり、当の画像のもたらす情動は、またしても写真的なものであった。写真的指標と情動との古き癒着を物語る創世記的な一節、「かつてそれはあった」がここにも再帰している。
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しかしGSVを写真と同一視してしまうと、そのオルタナティヴな特性を削ぐことになる。断片の区画としてあるよりは、だらだらと続いてしまう「切れ目のなさ」の方がたぶん重要に思える。その切れ目のなさ、際限なき曖昧な連続性は、物理的な様態においてだけではなく、GMやGE、さらには広くインターネット上のテクストや静止画像や動画と容易に連結されうるという拡張的な性格を言い表すものでもある。そしてGSVは、地名との連動において多少とも想像力を賦活させるものとなろう。
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コロナ禍に苛まれてきた昨年から今年にかけては、例年よりもあまり遠出をすることがかなわなかった。そんな中でもかろうじて可能になった忘れがたい旅に、昨夏に訪れた青森行がある。その目的のひとつに、八戸市博物館の「飢渇の郷土史−八戸ケガジ録−」展を見ることがあった。八戸では飢饉を「ケガジ」と呼ぶが、近世の四大飢饉に地域特有の「猪ケガジ」を加え、本当に度重なる飢饉から餓死者を繰り返し出してきた歴史を回顧するという、企画者渾身の展観だった。「ケガジ」は言うまでもなく自然災害や感染症とも関連する出来事であり、近・現代に到る東北の地政学的な環境とも無縁ではない。
展覧会に併せてケガジに縁のある場所を訪れておきたいと思い、東北における飢餓の近世よりも古い記述を探そうと、『陸奥国風土記』を繰る。「飯豊の山」という逸文の一つがあった。
《古老の曰ふ。昔、巻向の珠城の宮に御宇ひし天皇の二十七年戊午の秋に、飢饉ありて人民の多く亡せけり。故、宇恵恵【うゑゑ】の山の云ふといへり。後に名を改めて豊田と云ひ、また飯豊【いひとよ】と云ふ。》(植垣節也校注・訳『新編日本古典文学全集5 風土記』小学館、1997年による)
当然だが、風土記が編纂された奈良時代から飢饉はあり餓死者はいる。それでもなおここに記されている、「うゑゑ=飢餓」という地名を「いひとよ=豊穣」と呼び換えようとする祈禱の念には自ずと惹きつけられてしまう。当代に目立ってきた餓死者の無惨さを嘆く「私」のやる方ない思いは、上代に遡行しても「誰か」が同じように記しているのだという感慨を抱かずにはいられない。それにしても真に好ましいか否かとは別に、地名というものはいつの時代にも、折あらば好字に変わっていく傾きを内包するものなのだろう。
『陸奥国風土記』における「飯豊の山」という地名は、「現在の福島県西白河郡大信村豊地の飯豊比売神社が存する山」(前掲書)である。GSVでは、神社のある山に面した県道281号線と路傍から拡がる稲の植わった田圃の現在を見ることができる。そこへ、千年をはるかに超えたいにしえの風景を重ねてみたくなる。飯豊比売神社の簡素な佇まいは、個人の強い情熱によって支えられていると知れる、ある神社探訪を記録するサイトの中で眼にすることができる。ひとつの地名をめぐって、時空の旅がGSVを中心に自ずから組織されていくのだといえば、整いすぎた言い分になろうか。
飯豊という地名はまた、八戸に遠くない三戸郡田子町にもあることを知った。八戸の博物館で「ケガジ」の展観を訪れることを決めていたちょうど昨年7月24日は、青森県の無形民俗文化財に指定されている飯豊集落の祭り「虫追い」の日と重なっていたので、是非に立ち寄ろうと計画した。町役場に問い合わせると残念なことに、全国の多くの祭りと同じように中止が決まっていた。代わりに訪れたYouTubeでは、害虫を払って豊作を祈願するために男神と女神の人形を持つ、ゆるゆると練り歩く様子がアップされている。ワラでできた素朴な人型にはそれぞれ、男根と女陰が造作され、交合の瞬間でビデオは終わる。「三戸郡田子町飯豊」で検索してGMからGSVへ赴くと、褶曲する道路の両端にただ緑の領分が覆うばかりの風景が出現した。「ここ」にいながら「遠く」を訪れることのためらいは消し去りがたいものだが、何か落ち着きを取り戻すような心地がしていた。
倉石 信乃 明治大学理工学研究科総合芸術系教授。近現代美術史・写真史・美術館学。1988-2007年、横浜美術館学芸員として「マン・レイ展」「ロバート・フランク展」「菅木志雄展」「中平卓馬展」「李禹煥展」などの展覧会を担当。著書に『反写真論』、『スナップショット-写真の輝き』、『失楽園 風景表現の近代1870-1945』(共著)など。