iiiiD 10.2020

magazine 2020-10

植木鉢のある風景(2)
文・写真:甲斐義明

写真2-1[1]

 「植木鉢のある風景」と題したグループ展が京都の画廊「ギャラリーモーニング」で2017年2月に開かれていたことに気づいたのは、本連載の1回目 が公開された後だった。 (*1) さらに調べてみると日本土木工業協会の機関誌『建設業界』1984年8月号に「植木鉢のある風景」と題したフォト・エッセイが掲載されていることもわかった。東京23区内で撮影された6枚の写真と短文で構成されている、その匿名筆者によるエッセイは「考えてみると、この東京という都市自体も、巨大な植木鉢のようなものといえるかもしれない」と締めくくられている。 (*2)
 こうした先例が示すのは、軒先や道路上に置かれた植木鉢やプランターに注目しながら、街の景観を眺め、それを写真で記録したからといって、そのこと自体にオリジナリティはないということである。それどころか植木鉢を観察しながら街を歩くことで、私はすでに自分の路上への眼差しを、既存の枠にはめてしまっているのかもしれない。当初は、植物にフォーカスを当てることで、路上観察学会流の路上観察、さらには今和次郎・吉田謙吉の考現学とは違った、生活環境への視点が浮かび上がってくるのではないかと考えた。しかしまもなく、それはあまりに楽観的であるようにも思えてきた。確立された路上観察の実践の中にすでに植物への眼差しが組み込まれており、そこに新たに付け加えるべきことはほとんど残されていないかもしれない。実際、路上観察学会やその主催者のひとりである赤瀬川原平の著作においては、路上の植物に関心が注がれている例も少なくない。
 発端にはそのような批評的野心はなかった。人が路上の植物にカメラを向けるとき、それは表現意欲の発露である以前に、彼や彼女の植物愛に基づく行為であることがほとんどである。植物を愛する人間の気持ちというものはあまりにもありふれたものであるため、わざわざ「植物愛」と呼ぶには及ばないと思われるかもしれない。しかし植物一般に対して無関心な人も少なくないのであり、植物愛好家はそういう人たちから自己を区別することで、自らの植物愛を確認するのである。江戸時代の本草学者がそうしたように、植物愛好家はしばしば集まって自らの関心と知識を共有する。孤独な植物愛好家であっても、他の植物愛好家が書いた本(例えば、いとうせいこう著『ボタニカル・ライフ』)や植物愛好家について書かれた本(例えば、最相葉月著『青いバラ』)を通して、面識のない同好の士と精神的につながることができる。 (*3) その一方で、植物愛好家は非植物愛好家のふるまいに落胆させられたり、軽い怒りを覚えたりする。
 植物愛好家の視点から言えば、植物愛というものは確かに存在するのであり、それは人類愛のような普遍的で漠然としたものではない。しかし植物愛が様々なタイプに分かれるのも事実である。バラ愛好家がいれば、多肉植物だけをコレクションする人がいるし、野生ランの自生地を巡ることをライフワークにしている人もいる。愛知県美術館学芸員の副田一穂が2015年に企画した「芸術植物園」を見た際、中世ヨーロッパの図譜から現代アートまで古今東西の植物表象を幅広くカバーしたその意欲的な展覧会ににじみ出ている企画者の植物愛の深さに驚くと同時に、展示物の多くが植物の葉や茎(植物の緑の部分)を描写したものであることに意外な感じがしたのだった。 (*4) 本人に聞いたところ、花にはさほど興味がないのだという。それに対して私の植物に対する関心はもっぱら花に集中している。

写真2-2[1]

 「植木鉢のある風景」はフィルムカメラで特に目的もなく撮影された写真のスキャン画像の中から、植木鉢が写っているものを選び出すことによって始められ、やがて路上の植木鉢に集中的にカメラが向けられるようになった。私的な作品制作のようなものとして始められた「植木鉢のある風景」は客観的に見れば、一方で路上観察(とその写真表現)を、他方で植物愛好をその土台としている。私は私の写真撮影に対する熱中、そして植物愛の源を知りたいと感じ、さらには、それらを歴史的・文化的な文脈の中に置き、自身の欲求を社会のそれへと結びつけたいと考えた。
 赤瀬川原平らによる路上観察は、都市を一風変わった視点から捉えたが、それは当事者たちによって明確に意識された姿勢であった。路上観察学会の共同設立者である建築史家の藤森照信は『路上観察学入門』(1986年)に収められた「路上観察の旗の下に」と題した文で、「路上観察者の正面の仮想敵国」は「消費帝国」であると宣言している。 (*5) その背景には街が商業主義によって作り変えられてしまうことに対する危機感があった。だが路上観察学会が街作りに直接参画するわけではないから、それが行おうとするのは、人々の都市の見方を変えてしまうことである。すなわち、一見したところ親しみやすく、大衆に開かれているようでありながらも、実際は一部の資本家を利するためのものでしかない都市像を疑ってかかるような視線と感性を、路上観察学は私たちに植え付けようとするのである。しかし前回も述べたように、路上観察はマスメディアにも取り上げられ、それ自体がポピュラーな実践となると、都市を斜めから見るという当初の目的を維持することは難しくなった。ジョルダン・サンドが指摘するように「観察者たち自身にとっての不可避のアイロニーのひとつは、都市の路上のコモディフィケーションに反旗を翻す者としての彼らの成功が、彼らが撮影した無価値とされる「物件」から商品価値を引き出してしまったこと」にあった。 (*6 )

写真2-3[1]

 都市の路上のコモディフィケーション(商品化)に抵抗する実践であったはずの路上観察がコモディティになってしまうという皮肉。そのような事態が生じてしまった原因は、単にそれが社会的に成功したからというよりは、路上観察の方法に内在していたと見ることもできる。すなわち、それが開始された時点ですでに、路上観察学会の実践が方法論上の欠陥を抱えていた可能性も考慮しなければならないだろう。実際それについてはこれまでも指摘されてきた。例えば田中純は「トマソンや路上観察による都市観察は、無用物の無意味さをそれ自体として問題化したというよりも、「見立て」による記号化を通じてそれらを分類・体系化していたのであり、いわば無意味な「物件」を有意味な「記号」へと回収しつづけていた」と論じる。 (*7) 田中によれば、「路上観察学の視線は、バブル経済以降の、新品であるにもかかわらず無用物と化してしまった高層ビル群が立ち並ぶ都市風景にあっては、それがマニフェストとともに展開された当時の都市に対する批評性をもはや失ってしまった」。 (*8) 商業主義の進行によって都市自体が(それが資本主義の論理に乗っ取っているということ以外には)無意味なものとなってゆく過程を、路上観察者たちは直視することができなかった、というのである。

 田中の論を受けつつ南後由和が問題視するのは、路上観察学会が都市の細部である「物件」にのみ関心を集中させ、都市の全体へと向かう意識を十分に持てなかった点である。「やがて路上観察学会の観察行為がマニュアル化されるようになると、路上観察は誰もが楽しめる「遊び」として開かれていく一方で、すでに枠づけられた「物件」を後追い的に確認、眺めるだけの消費行為へと回収されていった」と南後は指摘する。 (*9) 佐藤守弘も同様に、トマソン観測において「物件」がある類型学に基づいていくつかのタイプに分けられて収集・撮影されたことが、この実践に分かりやすさをもたらした 反面、トマソンの限界となったと述べている。 (*10) しかし、批評家たちのこうした指摘を気に留める人は同業者(=批評家)の他にはほとんどいなかったようである。赤瀬川・藤森らによる路上観察学会の活動を意識的または無意識的に参照している現在の様々な路上観察において、観察した対象を分類することはほとんど必須のプロセスとなっている(前回紹介した「路上園芸学会」も「転職鉢」や「はみだせ緑」といったいくつかのタイプを設けている)。 (*11)
 上で引用した路上観察学論がともに主張しているのは、街のちょっと変なものに注目し、それを「○○タイプだ」と言って仲間内で(現在ではSNSにアップして)楽しむという路上観察者に典型的な行為は、路上観察の批評性を高めているというよりはむしろ損なっているかもしれないということである。「純粋階段」や「無用門」を見つけて喜んだからといって、消費社会の奴隷とは言えない。それはお金のかからない娯楽であるという点で、資本主義に少しだけ逆らっている。しかし、路上観察学の創始者たちが当初抱いていたはずのアンチの精神は、大衆文化としての路上観察においては容易に失われていった。日々のちょっとした気晴らしに批判意識など不要だという考え方もあるだろう。だが路上観察学が社会の常識やある特定の物の見方(とりわけ赤瀬川の場合、権威化した現代美術の言説)に対する批判意識を原動力としており、その精神が彼らの実践の本質の一部を成していたのだとすれば、それを欠いた路上観察はもはや何か別のものに変容(堕落)してしまっているということにならないだろうか。

写真2-4[1]

 よく知られるように、路上観察学は1920年代後半から30年代前半にかけて今和次郎が吉田謙吉らと行った考現学をひとつのモデルとしていた。路上観察学は考現学とある部分では共通しており、ある部分では異なっている。両者の比較は、路上観察学のさらなる弱点を明らかにするだろう。まず考現学と路上観察学に共通する問題がある。この言葉の命名者である今によれば、考古学の現代ヴァージョンとして考案された考現学は「方法の学」であり、「現在われわれが眼前にみるもの」を対象とする。 (*12) 今が吉田らと共同で行った調査をまとめた1930年の『モデルノロヂオ (考現学)』と翌年の『考現学採集(モデルノロヂオ )』では、銀座を行き交う人々の服装や、下宿暮らしの学生の持ち物一覧などが、グラフやイラストを用いて記録され、そこに調査者のコメントが加えられている。 (*13) 街頭での調査では調査対象となる人間と言葉が交わされることはなく、今らによる一方的な観察として(時には尾行という手段を用いて)行われた。
 こうした方法論を、自身の仕事がたびたび考現学と比較されてきたという編集者の都築響一は「今和次郎の場合、学問という城の中から望遠レンズで世界を観察しているから、[調査対象の]声は聞こえない」と批判的に捉えている。 (*14) 都築が「望遠レンズ」と呼ぶ距離感は、今によって意識的に選び取られたものであった。自らもその一員である都市生活者を観察するとき「われわれはわれわれ自身もそこで生活している舞台だということを忘れて」おり、「眼前の対象物を千年前の事物と同様にキューリアスな存在とみているかのよう」であるが、そうした態度でなければ「われわれのような調べそのものは生気をもってこないだろうと想像したいのである」と今は「考現学とは何か」で述べている。 (*15)
 考現学と異なり、赤瀬川・藤森らの路上観察学では調査対象はほとんど常に「もの」であるが、「眼前の対象物を千年前の事物と同様にキューリアスな存在」と見るような距離を取った視線は、彼らの活動を記録した出版物からも感じられる。今和次郎は「本当は対象を描くだけではなくて、話を聞いたらおもしろいかなという気持ちがあったのかもしれないけれど、聞けない自分、踏み込まない自分というのが」いた人だったのではないか、と都築は想像しているが、路上観察者にも確かにそのような気配がある。 (*16) 対象と距離を置きつつも、執拗に行われる観察には、他人と容易に打ち解けることができない観察者のシャイな性質の現れ、あるいは、厭人癖の裏返しとしての面があるだろう。都築にとっては、考現学のこうした側面はその方法論上の限界を意味していた。

写真2-5[1]

 他方で、考現学と路上観察学の差異から見えてくる、後者の弱点もある。考現学の学問としての将来的な可能性を論じた梅棹忠夫は、その特徴として調査対象の網羅性と無差別性を挙げ、次のように述べる。「昆虫学者がもし、うつくしいチョウだけを採集してみせるならば、自然の真相は把握できないだろう。おなじように、考現学者が目だった現象だけをとらえたのでは、社会の真相はわからない」。 (*17) 今自身も対象を選り好みしないところに、彼が対抗意識を抱いていた民俗学と考現学の違いがあると考えていた。「封建時代的色彩を多分に残存している田園において資料採集に従事する傾向をとり、とくに好んで山間地あるいは離れ島にその視線を向ける」民俗学者は、「ほとんど例外なく一戸の[古そうな]草屋根の家に注意し、現在の村の全舞台を忘れて注意力がそれに集中されてしまうであろう」と今は指摘する。 (*18) それに対して「現在の村の全舞台」に万遍なく注意を向けようとするのが、考現学の方法であった。
 路上観察学会の活動には林丈二のマンホール観察のように網羅的なアプローチがある一方で、赤瀬川のように個々の「物件」の良し悪しに拘る傾向もある。だが全体として見れば、対象が(マンホールのように)実用的であるか(トマソンがそうであるように)非実用的であるかを問わず、都市の見過ごされがちな断片に注目するのが路上観察学の特徴であった。上で引用した論文で南後も指摘していたように、そこでは都市を全体的に捉えようとする姿勢が半ば意識的に避けられているのである。今は「考現学とは何か」で考現学者の研究態度を動物学者や植物学者のそれに擬えているが、それに対して(梅棹の比喩を借りれば)「うつくしいチョウだけを採集」することを否定しないのが路上観察者なのである。 (*19) その傾向はとりわけ1993年の『正体不明』から2010年の『散歩の収獲』に至る、赤瀬川の写真集において顕著である。
 こうしてみると、路上観察学の限界として指摘されてきたマニュアル化や類型学には、それを考現学の網羅性や無差別性へと引き戻す役割があることがわかる。赤瀬川・藤森の路上観察に親しんでいる者であれば、街を散歩していて「無用門」や「植物ワイパー」が視界に入ったら、ほとんど条件反射的に歩みを止めるだろう(それをカメラに収めるかはどうかは別としても)。その際、個々の「物件」が美しいかどうかはまだ問題となっておらず、観察者の感性的判断も発動していない。美学者の津上英輔は(彼にとっての)散歩を「小観光」と呼び、「あじわい行為」のひとつと位置づけている。津上によれば「あじわい行為」とは「感性化」すること、すなわち「感性的でなかったもの(対象)または目(主体によるとらえかた)が感性的になること」である。 (*20) 路上観察も「あじわい行為」のひとつであるとすれば、路上観察学による街頭の様々な「もの」の記号化と類型化は、路上観察をまったくの感性的経験にしてしまうことに対する歯止めとなっている。分類は、外から与えられた知識に基づいて頭で考えて行う必要があるからである。だが同時に、この歯止めの存在こそが路上観察の感性的経験としての側面を際立たせているとも言える(少々の塩があんこの甘みを引き立てるように)。とりわけ赤瀬川の写真においては、トマソンの様々な分類とその概念から微妙にはみ出すものが、それらのイメージに命を吹き込んでいる。対象を分類しようとすればするほどトマソン、ひいては路上の様々な事物の分類不可能性が顕わになる。そして写真ほど、世界の分類不可能性に寛容なミディアム(媒体)はない。というのも、写真は何だかわからないものを、何だかわからないままに再現することを許してくれる視覚的ミディアムだからである。
 路上の植木鉢にカメラを向けるとき、私が行っていることは路上観察者たち、あるいはその批判意識を欠いた追随者たちと同じだろうか。植木鉢のある風景から何らかの批評的視点を取り出すことは可能だろうか。植物愛を批評に変えることができるだろうか。

写真2-6[1]

 ノア・バームバック監督による2019年の映画《マリッジ・ストーリー》では、舞台演出家の男が活動の拠点とするニューヨークと、離婚調停中の妻が女優業のために子供を連れて引越したロサンゼルスが対比的に描かれている。ロサンゼルスではハロウィーンのお祭りに子供と出かけるのにも車を使わなければならないことについて、「ニューヨークだったら、歩けただろうに(If we were in New York, we could be walking)」とアダム・ドライバー演じる舞台演出家は不満をもらす。アメリカ合衆国の都市において、そこが「歩ける」場所であるのは当たり前のことではなく、多くのニューヨーカーにとって、自分たちが暮らす街のもっとも愛すべき点のひとつとなっている。この街が多くの重要な写真作品の舞台となってきたのも、そのことと無関係ではないだろう。
 ところが、「植木鉢のある風景」を求めてニューヨークの通りを歩いてみても、期待は裏切られることになる。時には美しく整えられた鉢や、持ち主のこだわりが感じられる鉢を見かけることはある。しかし日本の路地の植木鉢を見慣れた目には、ニューヨークの植木鉢はむしろそのみすぼらしさによって特徴づけられているようにさえ思える。このことはかえって、日本の植木鉢がなぜあれほどヴァリエーションに富んでいて、街を歩く人たちの目を喜ばせるのか、その文化的背景について考えることを促す。私のさほど多くない海外旅行経験では、日本の園芸文化が世界的に見て優れているだとか、特殊だとか言うことはできない。しかし少なくとも日本人とアメリカ人のあいだで、植木鉢を愛でることに対する感覚、さらには公道を植物で彩るということに対する考えが大きく異なるということは言えそうである。
 今年の3月、約半年ぶりに合衆国から帰国して、日本の「植木鉢のある風景」に愛着を感じた。それは日本の園芸文化が豊かだからなのか、それとも、はっきりと意識しないまま愛郷心を持っているからなのか、あるいは他に何か理由があるのかは、よくわからない。赤瀬川は路上観察を通して、自身の感性が昔の日本人のそれと重なり合うことをしばしば自覚し、そのことを書き留めた。例えば、発足して間もない路上観察学会の京都旅行の成果である『京都おもしろウォッチング』(1988年)のあとがきで、フランスを訪れた際に紙幣があまりにも汚く皺だらけだったことに覚えた違和感から自身の「日本人エキス」を感じたと赤瀬川は語り、そういうエキスの「本家本元」が京都で「熟成されている」と述べている。 (*21) 「宇宙からのインベーダー」のような視点で街を観察しつつ、そこに自身の感性にしっくりくるものを見出すというのが、彼の基本姿勢であった。 (*22) 美的に認められないもの、違和感を覚えるものが赤瀬川の写真に収められることはない。そして、そのしっくりくるものが日本的なものであることを彼は隠そうとしなかった。
 そこに路上観察学のもうひとつの弱点があるように長らく考えていた。 (*23) しかし今では、自らの「日本人エキス」を肯定する赤瀬川を批判するのはそれほど容易ではないようにも感じている。それは新たに生じた次の二つの疑問ゆえである。第一に、美的に違和感を覚えたものを、その違和感を解消させないまま写真に収めることなど果たして可能なのだろうか。何かを写真に残すということは、多かれ少なかれそれを(頭では拒否したとしても)感性的に受け入れるということではないのだろうか。第二に、日本の路上の光景に美を感じ取るとき、その美が「日本的なもの」を超越していると言い切ることなどできるのだろうか。路上の植木鉢はこれらの疑問について考えるためのヒントを差し出しているように思われる。なぜなら植物愛は文化的に規定されていると同時に、その対象が特定の国や民族や文化に限定されることを認めないからである。違う言い方をすれば、日本の植物や園芸文化しか愛さないような人は、真の植物愛好家とは言えないからである。

*1 http://gallerymorningkyoto.com/2017exhibition/stilllife2017.html
*2 「植木鉢のある風景」『建設業界』1984年8月、7−10頁。
*3 いとうせいこう『ボタニカル・ライフ――植物生活』新潮社、2004年。最相葉月『青いバラ』岩波現代文庫、2014年。
*4 芸術植物園展実行委員会編『芸術植物園』芸術植物園展実行委員会、2015 年。
*5 藤森照信「路上観察の旗の下に」赤瀬川原平・藤森照信・南信坊編『路上観察学入門』ちくま文庫、1993年(初版1986年)、19頁。
*6 Jordan Sand, Tokyo Vernacular: Common Spaces, Local Histories, Found Objects (Berkeley: University of California Press, 2013), 106.
*7 田中純「路上の系譜 バラックあるいは都市の忘我状態」『都市表象分析Ⅰ』INAX出版、2000年、73頁。
*8 同上、78頁。
*9 南後由和「笑う路上観察学会へのまなざし――都市のリズム分析へ向けて」『10+1(No.44 特集藤森照信:方法としての歩く、見る、語る)』INAX出版、2006年。以下に再録。広島市現代美術館監修『路上と観察をめぐる表現史――考現学の「現在」』フィルムアート社、2013年、140頁。
*10 佐藤守弘「トマソンの類型学――ポピュラー文化のなかの超芸術」『現代思想』2019年7月、133頁。
*11 村田あやこ「あなたの家の近所でもきっと見つかる! 村田あやこさんに教わる路上園芸の魅力」『旅色プラス』2020年6月14日公開 https://plus.tabiiro.jp/articles/view/396107
*12 今和次郎「考現学とは何か」(1927年)『考現学――今和次郎集 第一巻』ドメス出版、1971年、14頁 。
*13 今和次郎・吉田謙吉編著『モデルノロヂオ (考現学)』春陽堂、1930年。復刻版、学陽書房、1986年。今和次郎・吉田謙吉編著『考現学採集(モデルノロヂオ )』建設社、1931年。復刻版、学陽書房、1986年。
*14 都築響一「今和次郎をめぐる談話」『今和次郎 採集講義』青幻舎、2011年、158頁。
*15 今和次郎「考現学とは何か」18頁。
*16 都築「今和次郎をめぐる談話」159頁。ただしメンバーのひとり一木努は、解体される建物の残骸を収集するにあたって解体業者との交渉を余儀なくされた。以下を参照。一木努「建物のカケラを拾う」赤瀬川・藤森・南編『路上観察学入門』201-320頁。
*17 梅棹忠夫「解説」『考現学――今和次郎集 第一巻』ドメス出版、1971年、505頁。
*18 今和次郎「考現学総論」『考現学――今和次郎集 第一巻』ドメス出版、1971年、40頁。
*19 今和次郎「考現学とは何か」17頁。
*20 津上英輔『あじわいの構造――感性化時代の美学』春秋社、2010年、13、178-184頁。
*21 赤瀬川原平ほか『京都おもしろウォッチング(とんぼの本)』新潮社、1988年、111頁。
*22 同上。
*23 2014年の文章で私は次のように述べた。「日本の伝統文化とその美的な規範を想起させる要素がトマソンやその他の路上観察の収集物で前面化してゆけばゆくほど、路上観察の発見的行為としての力は弱まってゆくだろう。なぜなら、それはすでに確立された美意識を再確認することにほかならないからである」。以下を参照。甲斐義明「発見のための写真」愛知県美術館編『これからの写真』愛知県美術館、2014年、29頁。

甲斐 義明 専門は写真史および近現代美術史。ニューヨーク市立大学大学院センター博士課程修了。現在、新潟大学人文学部准教授。著書に『時の宙づり――生・写真・死』(IZU PHOTO MUSEUM、2010年。ジェフリー・バッチェン、小原真史との共著)、編訳書に『写真の理論』(月曜社、2017年。ジョン・シャーカフスキーほか)がある。