iiiiD 11.2020

magazine 2020-11

連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
写真は私たちの生活に身近であるとともに、写真について検討するためのトピックは日々の暮らしの中にも潜んでいます。この連載は、倉石信乃、清水穣という2人の写真評論家に、日常的なモチーフを介して、そこから見つけられる写真のあり方について述べてもらい、写真について複数の視座から考えてみようというものです。共通のテーマから、それぞれどのような写真性が語られるのか、発見と思考をともに愉しんでもらえたらと思います。
(企画/編集:松房子)

連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
第3回 アーカイヴ

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腐れ縁

文:清水穣

 かつて、マラルメの「本」やボルヘスの「バベルの図書館」など、閉ざされた無限の迷宮で戯れる文学論が一世を風靡した時代があった (*1) 。「本」や「図書館」の時代、「アーカイヴ=文書館」といえば、そこに保存されているものは、「本」「図書館」以前の、公表されるに至らなかった資料、公表された作品を準備した資料、あるいは私信、日記、私物(物品、蔵書、写真、映像)といった非公開資料で、その敷居は高く、紹介状とアポイントメントが必須であって、そこに通うことはある種の特権であった。
 デジタル化の波が、図書や映像資料に及び、これらがグローバルネットワークによって連接し、やがてその流れが各地の文書館の資料群にまで達してくると、アーカイヴ、アルシーヴという言葉はかつてのオーラを失っていった。それは、「本」というユニットや「図書館」「文書館」といった特定の場所に囲い込まれることなくある時代ある空間に遍在する、情報のコーパス(データベース)を漠然と表すようになった。さらにアーカイヴ技術と検索エンジンの能力が昂進して、例えばGoogle Books/ Scholarなどで、万人が水平的に(パスワードによる審査を経ることなく、また情報ソースの有名無名に関係なく)検索できるような環境は日常化し、それがスマートフォンやiPadによって携帯可能になっている。多かれ少なかれ現代のわれわれは、あらゆる時代の情報が、無時間的な空間(「クラウド」)のなかに並んでいるかのような幻想のなかで暮らしている。
 このアーカイヴの幻想は、つねに検索用の距離を前提としている。情報データは「data=与えられたもの」である以上、つねにどこかからの引用であって、カギ括弧がついている。検索でヒットする情報はすべてカギ括弧つきである。写真もまた、所与の現実を、カギ括弧=フレームに収めることで成立する。つまり写真とは、世界のアーカイヴ化にほかならない。実際、写真が普及するに連れ、世界は次々と写真に収められていった。パリの銀行家、アルベール・カーンの野心は、全世界をカラー写真でアーカイヴにすることであった (*2) 。彼は写真家を雇って、発明されたばかりのオートクロームや動画用のフィルムを支給し、世界中に派遣したのだった。

 現在のアーカイヴは、われわれの心地よい幻想の条件 ―カギ括弧― を見せつける。カーンのアーカイヴは、写真による世界の所有という素朴な妄想のレベルにあったが、現在、いたるところで設立されているアーカイヴは、写真の占有を資本とする企業体である。われわれの検索にヒットしたわずかな「サンプル」の先へ進むには、そして、欲しい情報のカギ括弧を外すには、金がかかるのだ。もともと、アーカイヴには必ず「アルコーン=統治者」がおり、決して中立的ではありえない分類と検索のシステムが必ずある、つまりユーザー側からは、そこに収められた情報の真偽を検証できない。さらに、どれほど民主主義的な公共性が強調されようとも、完全に誰にでも開かれたアーカイヴというものは原則、存在しない。IDとパスワード、ときにはいまだに紹介状とコネクションがあって初めて、アーカイヴのポータルの先へ進めるのである。
 アーカイヴは、それが著名作家のアーカイヴであれ、無名資料のアーカイヴであれ、その著作権を独占し、それによって利益を上げるビジネスである。周知の通り、本来は利潤を追求しないはず(?)の学術論文さえ有料でアーカイヴ化されており、しかも年々高額化して、図書館の予算を圧迫している(フリーランスあるいは低予算の大学の研究者が、必要な先行論文を読むにはとても無視できない時間と金がかかる)。
 アーカイヴのアルコーンはまた、著作権の名の下に横暴を振るうことも出来る。表現の自由の中には、著作権と同等に引用の権利も含まれているはずだが、悪しき慣習というべきか、後者は前者よりはるかに弱いのが常である。アーカイヴは、そこに含まれた資料について、一方的な理由から引用権を侵害し、事実上一切の公表を禁じることすら出来るだろう。
 写真のアーカイヴに収まった写真は過去の光景であるから、もう撮影されることはない。つまりどれほど点数が多かろうと、その数は有限であるから網羅的に所有できる。例えば、福島の原発被害を撮影したすべての写真を買い上げてアーカイヴ化した「フクシマ写真アーカイヴ」があるとしよう。歴史修正主義者のアルコーンは、そのアーカイヴに介入して政府に不都合な写真はデジタル化せずに廃棄し、残った画像データについても一切の公開や使用を100年間に渡って禁止したとしよう。写真アーカイヴだけの問題ではないと思うが、歴史的資料のアーカイヴは、歴史の独占につながる。写真・資料のすべてが世間の目から隠されてしまえば、記憶の風化や忘却は簡単に進行するだろう。

 「写真とは、世界のアーカイヴ化」であるにとどまらず歴史の不当な独占である、と。このことは日常的な実感としてもそのとおりであって、理不尽な理由 ―私のテキストが気に入らない― から写真を使わせてもらえなかった経験がいくつも思い出されるが、結局のところ、それは売り手も買い手も同じ幻想を共有しているからであって、私の考えでは、本質的には写真のアーカイヴというものはありえない。アーカイヴ化するためには、資料体に対して物理的個別性とは異なるなんらかのユニット(「1」という単位)が不可欠であるが、写真にはそれが存在しないからである。写真はアイデンティフィケーションの道具になるかもしれないが、写真をアイデンティファイすることはできないのである。つまり、写真を写真として検索することは、原理的に不可能である。そして検索不可能なアーカイヴはただの倉庫にすぎない。
 まず、写真画像自体からただ1つの固有の意味を確定することは不可能であって、写真の意味はその写真が見られるその都度の時空間のコンテクストに従って変化するという、スーザン・ソンタグ、アラン・セクーラ、ジョン・タッグ以来の(とくに面白くもない)テーゼがあるだろう。
次に、写真はインデクス記号として「何かの」痕跡であるが、その「何か」は原理的にオープンである。さらに、写真を見るとき、われわれは脳内で ―つまり無意識を通して― 視覚情報を処理しているのであって、言い換えれば、自分がいま何を見ているのかを知らない。見たと思っている画像と、実際に見ていた画像は一致しない。われわれにとって写真は、現在という時を持ちえないのである (*3) 。「あの写真どこだっけ?」として想起されている「あの写真」は、すでに脳内処理の結果であるから、夢の事象のように、それが現物のどの写真に対応するかは不確定であり、対応したとしてもその対応関係がオリジナルなのか、いま形成されたものなのかはわからない。「意味」を措定できず、「何か」も不確定であるとき、いったい何を検索できるだろうか (*4) 。
 写真の研究者にとって、画像を画像として検索できるアーカイヴは理想である。顔認識ソフトには可能性があるかもしれない。また原理的には無理でも、1枚の写真にできるだけ多くのタグをつければ、そのような検索を擬似的に実現できるかもしれない。#森山大道、#白黒写真、#犬、#三沢、#ストリート、#1971、#アサヒカメラ … しかしアイコン的な写真は「何か」の方がはっきりしているからヒット率は高いだろうが、殆どの場合、検索したいのはそういう写真ではない。インスタグラムでの「似たような写真」の検索結果は、タグによる類縁性検索の精度が(まだ)かなり低いことを明かしているし、タグは個人的、主観的なものであるから、当然ながら誤差が激しい。中国の社会主義リアリズム絵画の画像に#宮崎駿、#ラピュタ、#コナン…などとタグを付ける目利きもいるので、なおさらである。

 すでに1994年、ジャック・デリダは、すべてのデータに対して利用者がメタレベルに立つアーカイヴ概念 ―われわれの幻想― を批判していた。「アーカイヴを解釈しようとするとき、その対象を、つまり受け継がれてきたデータを、明らかにしたり読解したり確立したりできるのは、みずからをアーカイヴの中へ書き入れる限りにおいてなのだ。つまり十全たる場所をそこに占めるほど十分に、アーカイヴを開いて豊かにする限りにおいてなのである。メタ・アーカイヴは存在しない。(*5) 」そして、水平化された過去のデータの集積ではなく、抑圧された無意識のようなアーカイヴ、いわば差延としてのアーカイヴに注意を促していた。「というのも、抑圧とはひとつのアーカイヴ化なのだ。(*6) 
 「アーカイヴ」という言葉を「ストリート」と言い換えると、わかりやすい。ストリートの写真を撮りたかったらストリートの直中へ入っていかなければならない、ストリートとは抑圧された無意識が外化した場所だ、と。そうして撮られるストリート・フォトグラフィーは、決定的な現在時の写真であると思われている。それはスタジオに戻ってきた写真家が、ネガをコンタクトシートのなかから選別し、決定的瞬間として現像したからである。フロイトが無意識と意識の関係を、写真のネガと、そこから現像された写真の関係 ―ただし現実のネガフィルムと異なり何回でも無限に上書き可能なそれ― に喩えていることは知られているが、それを踏襲すれば、作家がストリートでネガフィルムに吸着してきた潜在的なイメージ群は無意識の産物、そこから作家が後に選別して現像したイメージは意識の産物ということになるだろう。両者を比較することは、作家の創作行為の分析に貢献するはずだ。ネガやコンタクトシートは、どんな決定的瞬間にもその前と後があり、にじみ(作家と被写体のあいだの距離や時間)があり、それが点ではないことを教える。
 さて、アリゾナ大学のCCP(Center for Creative Photography)にはギャリー・ウィノグランドの有名なアーカイヴがある。晩年のウィノグランドは撮りまくるばかりで、プリントは全てアシスタントに任せ、コンタクトシートをはじめプリントを見るということをほぼしなかった。彼は末期癌が発見されてほどなく死んだので、本人にとって「晩年」は存在しない、その結果、未処理の遺作が膨大に残された (*7) 。つまり、ウィノグランドのアーカイヴは、その大半が、本人が撮影しただけでその現像を見ることなく遺したネガのアーカイヴなのである。
 ここで問題は、その潜在的なイメージ(無意識の産物)を、ウィノグランドの作品と見なしてよいのかということである。こう疑っても実は手遅れであって、すでに2度の大回顧展において、キュレーターのシャーカフスキーもルービンファインも、ネガのアーカイヴから彼らが気に入ったイメージを現像して展示していた(いわゆるposthumous editing)。彼らは膨大な遺作(と言えるのか?)を埋もれたままにするよりも、「未完作品」として公開する道を選んだわけである。展示作品にはその旨が明記されていたから、とりあえず問題はなかったが、明記する・しないはアルコーンの権限である。先述のように、現在のアーカイヴは企業体である。どんな写真家も未現像のフィルムないしデータを抱えている。著作権を手に入れてアーカイヴの管理人になった者が、その潜在的なイメージを勝手に現像し、作家のオリジナルとして販売することは大いにありえることである。今後、著名な日本人写真家のアーカイヴがいくつも出来ていくだろうが、この意味でわれわれは懸念を持ち、アーカイヴ化の方法やシステム、運営形態などに対して批判的な眼差しを向けていくべきであろう。

*1 これらはマラルメ(1842年生まれ)の同時代人、数学者ゲオルク・カントール(1845年生まれ)の集合論が開拓し、やがて突き当たった実無限とパラドクスの文学的表現とみなせるだろう(そういえばボルヘスに「エル・アレフ」という短編がある)。
 部分と全体の間に一対一の対応関係が成立するとき、その全体は無限集合とされる。無限集合の元の数は無限であるから、集合の大きさは数ではなくて濃度で測られる。あらゆる自然数の集合と一対一対応する無限集合の濃度をℵ0(アレフ・ゼロ)で表す。有理数の集合の濃度もℵ0であるが、実数の集合はそれより濃いことが証明されており、それをℵ1と表す。ある数直線上(1次元)、ある正方形上(2次元)、さらにはある立方体上(3次元)の全ての点は、それぞれ同濃度の無限集合なので、次元は実は連続している(カントールはデーデキントに宛てた手紙で「これは、理解はできるが信じられない!」という有名な言葉を残している)。1次元と2次元の間には、1.26次元(コッホ曲線)などの中間的な次元が存在する、と。
 さらに高い無限の濃度を求めて、カントールは、ある集合の部分集合で作られる集合を考えた。X個の元を持つ集合Aについて、そのなかのすべての部分集合で造られる(作られる)集合の元の数は、2のx乗個となる(それぞれの元が入るか入らないかで2通り)。これはもとのXより大きいから、この手続きを無限集合でも繰り返せば、いくらでも巨大な無限集合が手に入る。が、その最果ては「すべての集合の集合」というパラドクスであった。
*2 彼の「惑星地球のアーカイヴLes Archives de la Planète」はアルベール・カーン美術館に収められている。カーンは1908年に初来日し、その時を含めて日本へは通算3回も写真家を派遣して、明治から大正にかけての日本の風物を大量に、色鮮やかに記録している。当時パリにいた皇族、北白川宮と親交があり、その画像や映像も残っている。https://albert-kahn.hauts-de-seine.fr/
*3 「一般的に言って現在のテクストは存在しない。また現在完了、つまりかつて現在だった過去としてのテクストもない。テクストは、いまという意味での現在であろうとその変化形であろうと、現在時という形式においては考えられないのである。無意識のテクストを織り上げているのは純粋な痕跡、差異であって、そこでは意味と力が一体化している。テクストはどこにも現前せず、アルシーヴによって形成され、そのアルシーヴはつねにすでに転写transcriptionなのである。」Jacque Derrida, L’écriture et la différence (Paris: Éditions du Seuil, 1967) p.314. われわれが写真を「見る」ことの根底に、このようなアルシーヴとしての写真があるのだ。 
*4 画像をデータとして、つまり人間が「見る」ことと関係なく検索することは可能だろう。それをピクセルの集合に還元し、さらにピクセルごとの明度・彩度の数値が並んだマトリクスとして定義する。マトリクスの様態を数値化し、同じような数値を持つマトリクスを検索する、など。
*5 Jacques Derrida. Mal d’Archive. (Paris: Galilée, 1995) p.108
*6 ibid. p.103.
*7 未処理のフィルムロール2500本、処理済だがコンタクトプリント前のロール4100本を遺していた。つまりこれら約25万フレームに関しては、彼は撮影しただけで、写真を見てはいない。

清水穣 美術評論家、写真評論家、同志社大学教授。主な訳書・著書に『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』(淡交社、増訂版2005年)、『シュトックハウゼン音楽論集』(改訂新版2002年、現代思潮新社)、『白と黑で―写真と…』(現代思潮新社、2004年)、『写真と日々』(同、2006年)、『日々是写真』(同、2009年)、『プルラモン 単数にして複数の存在』(同、2011年)、『デジタル写真論』(東京大学出版会、2020年)など。定期的に内外の展覧会図録や写真集、「美術手帖」「陶説」といった雑誌に寄稿している。

 

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もうひとつのモニュメントへ
文:倉石信乃

1

 30年も昔、美術館に勤め始めて間もない頃に、「北海道写真」「北海道開拓写真」という、必ずしも適切とは言い難い呼称で示されてきた、明治初年に始まる写真群を調べるため現地に出かけたことがあった。展覧会のような差し迫った成果につなげる用のない、珍しい機会だった。目当ては、函館市立図書館と北海道大学附属図書館北方資料室の写真コレクションで、前者のうち著名な「カラフトのネコ」を含む樺太関連のアルバムや、後者では田本研造の写真によって構成される「札幌本道開削写真帖」などに強い印象を持った。数年前に再訪して同じアルバムを実見した際に、当時の私は「アーカイヴ」なるものと出会っていたという感慨を遡行的に覚えた。
 ここでいうアーカイヴとは、アートとその近傍に措定される写真の分野においてのみ、仮設的な妥当性を備えた用語と言うべきだろう。通例のそれは言うまでもなく複数形で綴られるarchivesの謂い、つまり博物館学で定義される場合には、公文書やそれに類する資料を保管する施設を指し、美術館学でも作家・作品に係わる二次的資料の置かれる場所を指すのが一般的であろう。しかしエスノグラフィックな資料が作品の素材へ備給される慣習が定着すると、ただちに作品と資料との境界が曖昧になる (*1) 。こうして「ポスト近代」における美術の有力な動向において、広義の「アーカイヴという閾」が領域化すると、写真は当該領域を構成する素材であり媒材であるだけでなく、資料体でありながら同時に定義の更新された「作品」として、領域内に居を定めた存在だと自然に遇されるようにもなる。
 省みればかつて美術館学芸員であった私が、図書館に史料として所蔵された古写真を好んで熟覧した傾きには、どこまでもarchiveとlibraryとmuseumの境界を曖昧化しようと企図する「写真的無意識」が、すでに胚胎していたのかもしれなかった。はるかに先んじて、「北海道写真」に歴史資料以上の何物かを見ようとしたのは、1968年日本写真家協会が企画し西武百貨店で開催された「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」の編纂委員だった内藤正敏たちであった。「表現の歴史」を描出するため記録と芸術だけでなく、記録の内実をもさらに腑分けして、新たな写真の範型を見出そうとする彼らの目論見の中で、「北海道写真」や原爆災害を記録した山端庸介の写真などが価値付けられたのは周知のごとくである (*2) 。現時点から遠望すれば、そこにはアーカイヴへの軽視があった。
 その一例にサイズの問題がある。「写真100年展」には、江崎礼二による赤ん坊のコラージュを表紙にしたものと、幕末に撮影された「武士と従者」を表紙にした改訂版という、判型も資質も異にする二種類の図録がある。この二つと、1971年本展を元に編集・刊行された『日本写真史1840-1945』(平凡社)にあってはみな、収録された個々の写真にサイズの記載が欠けており、また所蔵先も記載は別掲されるだけで、個別の資料/作品には紐付けされていない。時代の制約に帰せられもする仕儀だが、この展覧会で、実物と複写パネルの間で著しいサイズの改変が行われたことは注目されてよい。1640点に及ぶ「写真100年」展の全点数のうち、「現物出品」は784点とされるから、半数以上が複写であった。2013年、東京都写真美術館で開催された「日本写真の1968」展で、日本大学芸術学部に所蔵されている「写真100年展」に実際に出品された当時の複写パネルが展示された。小ぶりな写真アルバムに入っているキャビネ大の「カラフトのネコ」の写真は90×120cmに拡大されており、この写真の傍らには、アイヌの男性がいぎたなく地面に横たわる1968年の同展の中でも著名なイメージが—今日の眼から見れば救いがたく差別的な扱いの展示だ—、ネコの写真と同寸で拡大されたことを遅ればせながら知った次第である。1968年の企画者=編纂委員は、3年に及ぶ全国の所蔵先や印刷物の調査を経た上で、当の出自と写真とを切断して写真の「記録という表現」の衝迫力をフレームアップして見せた。その抽象作用で零れ落ちたのは、土地の固有性を不可分に負うアーカイヴそのものへの思慮である。アイヌへの思慮も全く欠落していたのも道理であった。展覧会(展示場所)はアーカイヴ(保存場所)と機能的に対立するが、再アーカイヴ化の起点にもなる。彼らは「もうひとつのアーカイヴ」を立ち上げたのである。

 今日、写真が自らの記録性を誇示しつつ、記憶のモニュメントへの生成変化を希求する傾向が顕著になっている。写真的モニュメントは、アーカイヴされるべき個々のドキュメントの、選択、抽出、そして昇格と見なされるような変質または転移に基づいて「建立」される。ここでは、その是非について性急に結論を出したいのではなく、ドキュメントとモニュメントをめぐる絡まった関係を、解きほぐす、というよりもむしろ、いくつかの角度から捉え直しておきたい。
 写真がモニュメントに「昇格」する歴史的な典型例の一つは、奉安殿の中の御真影である。昭和前期に流行し、鉄筋コンクリート製で耐火性などが万全にしつらえられた天皇の肖像の安置場所は、今日でも、長く廃校になった小学校の片隅などに偶々発見されたりする。奉安殿とは、写真を保存する=アーカイヴすること自体がそのままモニュメント化への移行を意味することを、「純粋」に体現する場所である。御真影を祀るという行為は、小学校という地域の教育的・文化的なセンターにおいて、児童だけではない住民大衆の身体に繰り返し働きかける、日常的儀式であった。その時、写真というモニュメントは可視性と可触性を併せ持つ、厳かな情報=物質でなければならない。
 中平卓馬はドキュメントとしてあるべき写真がモニュメント化することの危機を論じたことがある。中平が示したのは、浅間山荘事件のテレビ報道における固定と反復からなる映像が、「独立して一つの意味の記念碑的礼拝物に転化しているという事実」であった (*3) 。こうした不断の情報重複によって権力がもたらす、身体受容の「麻痺」の淵源のひとつは、御真影のごときイメージの儀式的提示と礼拝の繰り返しにあるだろう。そして、奉安殿はアーカイヴそのものの持つモニュメント性が、最も即物的・効率的・短絡的に現象している装置にほかならない。
 ミシェル・フーコーは『知の考古学』におけるアーカイヴ論の前提ともなる議論の中で、アーカイヴの構成与件となるドキュメントとモニュメントの関係が、歴史学の転回点においてある転倒が生じたことを指摘している。

その伝統的な形態における歴史学が企てていたのは、過去のモニュメントを「記憶化」し、それをドキュメントに変換して、それ自体としてしばしば言語的でない痕跡や自分が語っているのとは別のことをひそかに語っている痕跡をして語らしめることであった・・・これに対し、今日、歴史学とは、ドキュメントをモニュメントに変換するものである。 (*4)

 ここからフーコーはいまひとつの転倒を導出する。つまりかつては考古学が歴史学を目標としていたとすれば、現在では歴史学が考古学を目標としているというのだ。私見では、狭義の歴史学に関してのみならず、およそ歴史に抵触することにまつわる、制度的な権力の行使は今日ますます、かかるドキュメントのモニュメント化と無縁ではない。そこに「情報」よりもむしろ、ドキュメントが本来的に備えているその「物質」の過度な濫用、いわばフェティシズムさえ生じうるのは、ドキュメントに依存したアートによく散見される事案といえるだろう。
 2008年オクウィ・エンヴェゾーが企画した、ジャック・デリダの著作のタイトル「アーカイヴ・フィーバー」(当該の著作の邦訳に倣えば「アーカイヴの病」)をタイトルに引いた展覧会がニューヨークの国際写真センターで開催される。図録にあるエンヴェゾーのエッセーの副題には「歴史とモニュメントの間にある写真」とあるが、要するにこの展観は、写真を有力なミディアムとして、史実をモニュメント化の口実として活用する美術が普及した実情をまとめたサーヴェイであった (*5) 。アーカイヴの「民主化」というべき事態だが、そこには別の権力も兆している。ドキュメントへ効率的にアクセスしそれを活用できるオペレーター、検索者、キュレーターといった「媒介者」にこそ、アーカイヴにおける権力移譲の帰趨は決してきた。ボリス・グロイスのように確信犯的にモダニズムの残滓を現在に溶融させるレトリックを駆使すれば、「キュレーターは民主的な大衆の名において選択を行なう者」だが、アーティストはそうではないと弁別することがかろうじて可能になるかもしれない (*6) 。とはいえ、両者はますます見分けがつきにくい。今日のアーティストはさかんにアーカイヴへの言及・参照を行うだけでなく、効率的な検索システムを己に装着し操作するだけでもない。既存のアーカイヴから己の内なる未生のアーカイヴへドキュメントを移植・備給して、来たるべきアーカイヴそれ自体を構築しうる特権的な主体こそをその都度立ち上げるのだ。その身振りと手つきにはしかし、応答責任の無軌道な解除もつねにつきまとう。

3

 かぼそい救いは、アーカイヴが多くの場合、未だサイトスペシフィックであることだ。ドキュメントの複製や移し替えが可能で、それがため胡乱なアーティスト主体を強化するにせよ、アーカイヴには、場の特性を銘記しなければいかなるドキュメントの使用も陳腐化するような、固有の「重さ」がある。アーカイヴは自身の宛名・住所を持つ。移動不可能性を生き、依然として「その」場所に繋ぎ止められている。場所の記憶の碇によって停泊し、繋留され続ける。アーカイヴでは、しばしば複数のモニュメントが隣接する。そのことによって、アーカイヴからの自在なドキュメントの流出が無言のうちに堰き止められ、サイトスペシフィックな磁力とオーセンティックな求心力は強められる。そのような働きが、アーカイヴに対するモニュメントの隣接には作動している。
 しかし当のモニュメントは反復の力によって、不断の映像的な移し替えによって、その磁力を弱めていくことになる。たとえば広島の平和記念資料館の近傍には余りにも著名なモニュメントとなった「原爆ドーム」がある。それは映像的反復がもたらす麻痺や不感症によって、物質的な触感でさえ常套的な既視感へと容易に変質しがちだ。
  だから別種の「マイナーな」モニュメントを想起することが必要になる。それは一般にはむしろ見えにくい場所で静かに佇み、史実を等身大で語ろうと腐心する。マイナーなモニュメントとは、増幅を拒み史実の物語化が形骸に堕することに抵抗的であるかぎりにおいて、ようやく物語を自ら編み出していくような存在にほかならない。
 広島の平和記念公園の片隅に、ということはつまり平和記念資料館の近傍に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑(1970年建立)がひっそりと立っている。さらに碑の傍らには、以下のような「慰霊碑の由来」の説明文も立っている。

第二次世界大戦の終り頃 広島には約十万人の韓国人が 軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。/1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。/広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。/爆死した これら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ 原爆の惨事を二度と くり返えさないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅に この碑が建立された。/望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰さめることはもとより 今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し一日も早い良識ある支援が実現されることを念じる。/韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日この場所で挙行されている。/在日韓国青年商工人連合会及び有志一同

この国の首相や原爆投下の責を負うべき国の大統領のごとく、追悼の志を決定的に欠いたスピーチしかしない面子を揃えてなされる、実りなき記念式典が反復して止まない広島/日本において、その虚を突くモニュメントの小さくユーモラスな佇まい—亀を模した石の台座に碑が立ってその上部には双頭の龍がキューブ状に積み上がる—こそが、自らのドキュメントを恣意的に戯れなる忘失へと絶えず流出させかねないアーカイヴの権力を、かろうじて批判しうるのではないのか。とりわけ被害のみならず加害の責務に気づかせるこのモニュメントは、そうした潜勢力を蓄えて待機するのであり、そのための立地であり建立であるに違いない (*7) 。

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 都心からやや離れた郊外にある札幌芸術の森には、その中心施設である美術館の近傍にユニークなモニュメントというべき作品がある。アイヌの彫刻家・砂澤ビッキの《四つの風》である。1986年に設置されてから、本作を構成する空へ伸びるエゾアカマツの巨木4本のうち、2010年8月6日に1本目、2011年7月4日に2本目、2013年7月11日に3本目がそれぞれ倒れた。「風雪という名の鑿」が加わることでいずれは自然へ還ることを想定していたという作品はいま、かろうじて立つ一本を残して横臥している。
 アロイス・リーグルは、廃墟のように風化現象にもっぱら依拠する「経年価値」を、「歴史的価値」から分離して、記念物崇拝の中でも現代に優勢なものと見なした。だが彼はそこに、新規性がそうであるように「素人」にも容易く解される古色への危険を察知してもいる。《四つの風》が自然の中へ回帰するという契機には、リーグルの理論を裏打ちする部分があるが、あらかじめ作品の死を積極的に是認する砂澤の企図には、風化の進行につれて高まる「経年価値」が事物の消滅とともに潰えるとするリーグルの見解とは鋭く交叉している (*8) 。アーカイヴは自ら抱え込むドキュメントと己自身を、無限遠の未来まで保存可能なものと見なさざるをえない、少なくともそうした立場を採らざるをえない機関である。そんなアーカイヴの近傍にあって、保存という制度に抗して自ら亡滅へと向かうことがむしろ摂理にかなうと断ずる砂澤の過激な思考には、芸術という人為のリミットを超出しようとする叡智の働きがある。アーカイヴ(保存機関)を含む美術館の近傍の森の一角に位置し、美術館の領域の一部を成してその活動を支持しながら、内破的にそれを批判し、場合によっては当のアーカイヴにとっての敵・脅威となること。しかしこの敵対と脅威は芸術にとって滋味に富む、示唆的なものであるほかはない。かくして《四つの風》は、アーカイヴの近傍にありながら反アーカイヴ的な営みとしてもあるモニュメントの、自ずからなる死への歩み寄りと、より大きな生、またはエコシステムへの帰依の表現であった。

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 戦後の北海道を撮り続けた写真家・掛川源一郎の代表作に、長万部の平里に入植した沖縄・本部町備瀬出身の仲宗根家の人々に取材した写真集『大地に生きる—北海道の沖縄村—』(1980年)がある。写真集の冒頭に掲げられた「沖縄村」のモニュメントとは、泥炭地から手ずから入植者たちが掘り出したエゾマツの巨大な根株のことだ (*9) 。しかしそれもすでに、掛川の写真集の出版された1980年には失われており、写真の中にしか存在しない。だが消滅したモニュメントの喚起力を写真は伝えることができ、ドキュメントするという身振りを介して今度は写真がそのモニュメンタリティを図らずも代補した。ドキュメントが、喪われたモニュメントを再び取り戻しに行ったのである。消え去るモニュメントはいつも、ある特定の写真のなかでのみ保存されうる。アーカイヴ的価値のありかとして、掛川による労働と入植のモニュメントの記録ほどふさわしいものはそうは見当たらない。
 「沖縄村」と呼ばれたかつての開墾地は、すでに熊笹の覆う原野へと移行している。この列島には、産業考古学的な遺物・廃墟が野放図な自然の表現へと転移しつつある場所で満ちている。この行程は人々の思いの形象化としてあったモニュメントの廃墟化とも結びつき、さらに当の廃墟は多重化する忘却—忘れたことを忘れること—への歩みを加速している。アーカイヴもまたそれに連動して朽ちていくのか、それとも廃墟から過去の叡智を汲み取るのか、過誤の織物を新たに編成するための拠点となるのか。アーカイヴは喪われたモニュメントをそのまま復興するというのではなく、単にそれを機能主義的に代補するというのでもなく、それを作った人為に結晶しているものを探り当てるためのドキュメントの数々、それらを力強く再作動させる場とならなくてはならない。

*1 このことに関連して、キュレーターの立場から、現代美術における「アーカイヴ・アート」の興隆を簡潔にまとめた以下は有益である。藪前知子「「アーカイヴ」とキュレーションの欲望」、『aica JAPAN NEWS LETTER ウェブ版』 第5号、2015年9月、8頁。
http://www.aicajapan.com//newsletter_n/webnewsletter_5.pdf
*2 本展についての批評的論考として以下を参照。土屋誠一「写真史・68年—「写真100年」再考」『photographers’ gallery press no.8』photographers’ gallery press、2009年、242-252頁。
*3 中平卓馬「記録という幻影—ドキュメントからモニュメントへ」、中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』晶文社、1973年、37-46頁参照。
*4 ミシェル・フーコー『知の考古学』慎改康之訳、河出文庫、2012年、19頁。
*5 以下を参照。Okwui Envezor, “Archive Fever: Photography Between History and the Momument, ” in Archive Fever: Uses of the Document in Contemporary Art(Exhibition Catalogue)(New York: International Center of Photography), 2008, 11-52.
*6 ボリス・グロイス「インスタレーションの政治学」星野太・石川達紘訳、『表象』12、2018年3月、70頁。
*7 この碑の詳細については、以下を参照。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/ireihi/tour_11.html
また、ここでは広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑のほかに、東京都立横網町公園(被服廠跡)に立つ、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑(1973年建立)も念頭にあった。この碑は、関東大震災と東京大空襲の二つの災厄を記念する、伊東忠太設計の東京都慰霊堂(旧・震災記念堂)と被災資料をアーカイヴする復興記念館に隣接している点で広島のそれと同形的な意味を持っている。周知のごとく現在の都知事は就任以来、このモニュメントの前で行なわれる追悼式典への追悼文の送付を取り止めている。爾来図らずもこの碑はいっそう、大震災時の朝鮮人虐殺の事実を抹消したい歴史修正主義的な諸力に抗して、被害と加害の史的認識を正常に涵養するために、重要な拠点を形成している。
*8 アロイス・リーグル『現代の記念物崇拝—その特質と起源—』尾関幸訳、中央公論美術出版、2007年。巻末の尾関による解説も参照。
*9 掛川源一郎『掛川源一郎写真集 大地に生きる—北海道の沖縄村—』第一法規出版、1980年、9頁。

なお本稿は、2017年12月17日、札幌市立大サテライトキャンパス で行われたフォーラム「北海道写真とアーカイブ」での講演の草稿・備忘録を手掛かりに、今回新たに書き起こしたものである。

倉石 信乃 明治大学理工学研究科総合芸術系教授。近現代美術史・写真史・美術館学。1988-2007年、横浜美術館学芸員として「マン・レイ展」「ロバート・フランク展」「菅木志雄展」「中平卓馬展」「李禹煥展」などの展覧会を担当。著書に『反写真論』、『スナップショット-写真の輝き』、『失楽園 風景表現の近代1870-1945』(共著)など。