「わからなさ」に足を踏み入れる 志賀理江子「ヒューマン・スプリング」展 文:酒井瑛作

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※2019年5月に掲載された記事の再掲です
2019/3/5〜5/6にかけて東京都写真美術館で開催された、志賀理江子「ヒューマン・スプリング」展レビュー

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 志賀理江子の写真の前では、ただただ呆然とするしかない、という感じがする。写真に象徴されているものが何なのか、何とでも言い表せる気がして、しっくりとくる言葉が見つからない。展示会場から出てきた若いカップルは「なんか……すごかったね」と、お互いに何かを確認し合い、その場を後にしていった(気持ちはわかる)。そう、一言で言えば、難しいのだ。過去作『螺旋海岸』『ブラインド・デート』などでは、写真集とともにテキスト集が出版されており、文章から理解の糸口を得られるようになっているが、今回の会場内にはストイックに写真作品のみ展示されている。唯一、手がかりとなるのは、会場入り口で手渡される作品のタイトルリストだ。

 このような展示を見て、皆が口々に言うのは「写真だけ見てもよくわからない」ということだった。そのわからなさとは何なのだろうか。「写真だけ」では得られるものはないのだろうか。もちろん「写真のみからすべてを理解しろ」なんてことは、超保守的な態度であることは間違いないと思うのだが、志賀理江子の展示に関しては、そういった話とは別の写真との向き合い方を求められているような気がする。それでは、どのように「わからなさ」と向き合えばいいのか。いち鑑賞者として、大きな飛躍をせず、目の前にある写真から考え始めてみたい (*1) 。

 美術評論家の清水穣は、志賀理江子の写真を「B級ホラー」であると言った (*2) 。B級ホラー映画に頻出するミステリーサークルや暗闇に浮かぶ物体などのお決まりのモチーフやエフェクトが、志賀の写真でも反復されているのだという。これは過去作(『CANARY』『LILLY』『螺旋海岸』)に対する評だったが、今回の『ヒューマン・スプリング』ではどうだろうか。大まかに受ける印象は、がらりとは変わってはおらず、写真全体のトーンは暗く、廃墟の建物や泥にまみれた人物が写っている。表現のアプローチ自体は一貫しているように見え、B級ホラー的な要素は、少なからず全体を通して引き継がれているが、違いがあるとすれば、一見してわかる写真の加工が減ったということだろうか(これは『螺旋海岸』から続く変化でもあると思う)。

 もちろん色味やコントラストなどのトーンは操作されているが、何かを足したり、引いたりといった加工が減り、よりストレートな形で被写体の姿が写し出されている。それは過去作にあった超常現象的な光景や霊感をまとった光景などの圧倒的な非日常ではなく、どちらかと言えば、日常と地続きであると言えるような“現世”に近づいた感のある光景だ。霊的なものを感じないと言えば、そんなことはないのだが、この微妙な現実への接近は、小さな変化なようでいて、実は大きな違いとなっていると思う。なによりこの変化によって、モチーフやエフェクトに「B級ホラー」の要素を見出すことで、ある程度の語りを成立させることができていたアプローチはやや困難になっているからだ。むしろ今作の“ストレートっぽい”写真の見えは、そういった形容をも拒んでいるようにも見える。写っているものは、廃墟だし、人物だし、街並みや自然の風景であって、何が写っているのかははっきりとわかるが、それが何を表しているのか、形容できる言葉をあてどなく探してしまう、そんな寄る辺なさを感じるのではないだろうか。「わからなさ」は、このような写真の見えの変化に潜んでいるのかもしれない。

 とはいえ、この変化からわかることもある。そのひとつに、なんとなくスナップ写真の佇まいと似ているという印象があった。基本的に志賀の作品は、ステージド・フォトであり、写真に写っている状況は、撮影のためにつくられたもの(この点は、予習が必要な部分ではある)だ。その一方で、今作では、泥にまみれた人々が水辺から抜け出そうとしている写真や、汗だくで殴り合っている(ように見える)写真など、人物たちが躍動している写真がいくつかある。そこからは、シーンのコントロールされてなさや、瞬間を切り取ったような点が際立って見え、ステージド・フォトの作り込みとは反対の印象を受ける。それらの状況自体は演出されているものの、その中にある身体の動きそのものはリアルで、また、そこから発せられるエネルギーもまたリアルなものだろう。それゆえ、写真の性質が、演出的なものから瞬間を捉えた記録的なものへと変わっており、イメージの表面というよりも、そこに写る現実に意識が向かう効果を得ているように見える。

 スナップ写真的な見えが端的に表しているのは、リアリティーだ。実際にそこで何かが行われたという事実や、過ぎ去っていく時間の流れの断片が記録されている。そして、繰り返しになるが、ステージド・フォトであることと、スナップ写真的であることとは、矛盾している。この危うい関係性は、なんとなく「つくられたもの」と「ありのままのもの」が混同されたままに提示されているような印象を与えるのではないだろうか。言い換えれば、これは現実で起こったことなのかどうか、判断を保留されてしまうような感覚だ。もしかすると、写真を見た時に感じる居心地の悪さの根源でもあるかもしれない。こうした印象は、インスタレーションからも同様に感じられる。

 展示会場内には、一般的な展示のように壁に掛けられた額入りの写真作品はない。代わりにあるのは、四方に写真が貼られた箱状の立体物20個。高さは2mほどあるだろうか。それらが、仕切りのない空間全体にずらっとランダムに配置されている。過去の展示と比べると、比較的シンプルな構成で、写真のみが空間に存在するような印象を受ける。鑑賞者は、決まった順路がない中、写真の間を行ったり来たりしながら見ることになり、写真と自分自身との距離は常に移ろっていく。さらに、展示の中でもっとも目を引くのは、箱の裏側に、すべて同一の写真が選ばれている点だ。入り口から奥まで行き、振り返ると、赤く顔を塗られた男性の写真がずらりと並んでいることに気づく。

 一度しか来ない「今」を捉えたはずの写真が繰り返されるのは、ありのまま(=自然)だと思っていたものが、覆されるということだ。そして、これは作家の手によってつくられたもの(=演出)であり、一枚一枚の写真のうちに生じている演出と記録の引き裂かれと重なってくる。つまり、その中を自らの身体をもって歩くということは、秩序から逸脱していく過程でもあるだろう。それは不安や怖さといった感情を呼び起こす体験でもあるが、考えてみれば、「今」を捉えながらもそれが事実であるかどうかはっきりとは名指せない、本来写真が持つプリミティブな原理に触れる体験でもあるのではないだろうか。

 志賀は、この写真の体験を、今作のテーマと強力に結びつけることで、写真の捉えどころのなさに、具体的な身体感覚を与えようとしている。同時期に東京都写真美術館で開催された『写真の起源 英国』で扱われていたような18世紀末から始まる写真の誕生の時点に立ち戻り、(真っ当すぎるとも言える)率直な写真の見方へと誘うのだ。この時、頼りになるのは、写真の周辺を埋めるテキストではなく、自分自身が歩いてきた道のりであり、身体がどう反応したかということだろう。そして、それらを紡ぐことで何が見えてくるのか、振り返ることから初めて写真と向き合うことができるのではないだろうか。「わからなさ」とは、そのはじめの一歩として、間違いなく役に立つ感覚となるはずだ。

 


*1 筆者は、『ヒューマン・スプリング』開催前に、雑誌『IMA』誌上にて作者へのインタビューを行っており、どのような意図のもとで今作がつくられたか、事前に質問する機会を得ていた。ただ、前提として作家との対話と、鑑賞者として実際に作品を見る体験とは、まったくの別物であるという考えが個人的にある。また、インタビューにて受け取った言葉は、取材中のわずかな時間では消化しきれなかった感もあり、そのため、この時評はインタビューに対する長い長い補足(または、インタビューのあとがき)として楽しんでいただくのもよいかなと思う。
*2「33:写真の意味、あるいはB級ホラーの演出<2>」ARTiT、2013年(最終アクセス日:2019年5月5日)