自画像試論:セルフ・ポートレイトからオート・ポートレイトへ  文:調文明

magazine 2023-01

※2019年5月に掲載された記事の再掲です

Subscribe ✉️   Share 👏
Follow on   Instagram  Twitter
iiiiDは写真にまつわる作品や論考
を掲載するウェブマガジンです

「C97 を 35 から 28 へ。ない」
「C98 を。やっぱりそうだ」
「C96 を。これも」
「C92。4 から 13 へ。42 から 30 へ。これもだ」
「これも。この写真にはみんなカメラがない!」
――攻殻機動隊 S.A.C. 第 4 話「視覚素子は笑う」

 これは『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のテレビシリーズ第4話に出てくるセリフの一部である。公安九課に所属するトグサが本庁で同期だった人物(不審な事故死を遂げる)から受け取った写真プリントを解析している際に発した言葉だ。彼は何を解析していたのか。それはプリントに写る反射物である。ガラス扉、人間の目、そして鏡。本来なら撮影者=カメラが反射して写っているはずなのに、そこにはカメラがない。トグサが最後に手にした写真、そこにいるのは、鏡に向かって髭剃りに専心する男の姿だけだ。
 この事件をきっかけに公安九課は巨大な陰謀に巻き込まれていくことになるのだが、それは本論の趣旨ではない。注目したいのはこの一連の写真である。種明かしというわけではないが、どうしてこのような写真が撮れたかというと、捜査官の電脳に(同意なく)埋め込まれたインターセプタ―と呼ばれる視覚素子=電子部品によって、仕掛けられた人物が見たものをそのまま映像化することができたからである。トグサが最後に手にした写真だが、当の本人には撮影している意識はないため、さしずめ自我なき自画像とでも言うべきだろうか。

 一般的に言えば、自画像が成立するためには、制作者の自己意識の芽生えが必要である。だが、それは決して自明のことではなかった。たとえば、古代ギリシアの時代には自画像を描く習慣がなかったというと不思議に思う人もいるかもしれない。むしろ、自画像を描いたために投獄されたという逸話も残されているほどだ(プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』に登場する古代ギリシアの彫刻家ペイディアス)。像とはあくまで神々もしくは絶対的な力を持った権力者を奉るものであり、制作者は依頼を受けて作る職人的な存在にすぎなかったのである。それは中世に至っても画家ギルドが結成されていることから職人的な身分が続いていたことを示唆している。
 だが、15世紀中頃から変化が起きる。依頼主の注文とは関係なく、画家が自画像を描き始めるのである。その先駆者として挙げられるのが、ドイツの画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)である。13歳の頃に描いた自画像のデッサンも残されているほどだ。その後も多くの画家が自画像を描くようになり、1681年にはイタリアのウフィツィ美術館に「自画像ギャラリー」が開設されるに至る。「絵を描く自分を描く」という営為は作者としての自己意識が明確に芽生え始めた証左とも言える。
 その自己意識を文字通り照らし出したのは、自画像には不可欠な「鏡」である。画家は通常、自画像を描く際に鏡を用いる。だが、鏡は技術的な補助器具であるばかりでなく、『鏡の文化史』のなかでサビーヌ・メルシオール=ボネが「反射の道具である鏡は、熟考の手本の役割も買ってでる」(竹中のぞみ訳、181頁)と述べるように、自己自身を見つめ返し熟考する内省の機会を与えるものでもあった(日本語における「鏡」と「鑑」の関係にも注目したい)。左右反転した逆像は自分自身の実在を示すと同時に、自分と少しずれた他者との遭遇(逆像の自分に見られる)をももたらす。フランスの精神分析学者ジャック・ラカンが提唱した鏡像段階はまさにその自己意識の芽生え(の原初)を活写している。「寸断された身体」の状態である幼児は鏡(他者)をとおして、まとまった身体を獲得し、自我を形成していくことになるというのだ。鏡は繰り返し自己意識を芽生えさせる。
 その意味で、自画像を「セルフ」・ポートレイトと呼称するのは端的に正しい。私たちは鏡を介した自己反射=自己反省という経験をとおして、自己意識(同一性)を獲得するからだ。冒頭に示したトグサの写真解析も、反射を前提としたからこそ「異変」に気づくことができたのである。反射=反省をとおして自分へと送り返される自画像、このきわめて人間的な肖像をセルフ・ポートレイトと呼ぶとしたら、自分へと送り返されることなく反転した「象(かたち)」を残し続ける映像的な自画像は何と呼べばよいだろう。
 ここで、普段あまり使われることのない、自画像を意味するもうひとつの言葉を召喚したい。それは、オート・ポートレイトという言葉だ。ギリシア語で「自分自身」を意味する「autós」に由来する接頭辞「auto-」は「自叙伝 autobiography」「独裁(自らの手による支配)autocracy」「自動車 automobile」など、セルフと同様に「自ら」とかかわる単語を構成する一部となっている。しかし、この接頭辞には「セルフ」とは微妙に重ならないもうひとつの意味合いが含まれているように思われる。それは「自動的 automatic」という意味内容だ。鏡に映る姿は人の手で描いたものではなく、その前に立てば「自動的」に像が形成される。こうした自動性の自画像は鏡のほかに影も含めることができるだろう。そして、それらの像はいずれも反転した姿を私たちに見せている(どちらかの手を挙げて影や鏡の像を見るとよい。像はどちらの手を挙げていると私たちは認識するだろうか)。
 この自動性の自画像で最も知られているもののひとつにイエス・キリストの聖骸布(または聖顔布)がある。キリストが布に顔を押し当てたことで、そこにキリストの顔が転写されたという。それゆえ、この肖像は「アケイロポイエートス」、つまりは「人の手によらない」像として至高の肖像とみなされてきた。こうしてみると、キリストの肖像もまた反転を示唆する生成プロセスを有していることになる。人の手によらない=自動性の肖像は反転した世界の住人として私たちと対峙している。
 そして、写真もまたその世界に列席する。写真の根本的な光学原理である小穴投影現象は本体とは上下左右が反転した像を生み出す。ピンホールカメラがその好例だろう。つまり、光学的な「正しさ」は反転像のほうにある。だが、その正しさに耐えられない私たちは、たとえば鏡の「反射 reflex」を採り入れたレフレックスカメラを用いてその上下左右の逆像を再反転させ、私たちの見慣れた世界に馴致させようとしてきた。この反転への忌避は人の手によらない=自動性の肖像をなんとか人の手のうちにおさめようとする一種の強迫観念とも言えるかもしれない。そして、その忌避反応は今もなお健在である。
 2019年4月1日に新元号「令和」が発表され、その8日後の財務相の記者会見では紙幣の一新が告知された。その後まもなくして、新紙幣のなかで五千円札の新たな肖像として選出された日本の女子高等教育の先駆者である津田梅子の図像をめぐりある疑惑が浮上する。それは顔の向きをそろえるために津田の写真を反転させたのではないかという疑惑である。だが、先に見たように私たちが「正像」だと思っている像はすでに何らかの仕方で反転させた像なのである。反転を加工だと批判するのだとしたら、その矛先は必然的に正像にも向けられて然るべきだろう。それでもやはり正像を望むならば、人の手による肖像、すなわち絵画に頼るほかないのではないだろうか。だが、そのとき顔の向き以外のあらゆる「正しさ」が問われることになるであろうが。全き正像は新たな「青いバラ」となるかもしれない。

 さて、最後に現代の「アケイロポイエートス」、すなわちオート・ポートレイトを示唆して本論を締めることにしたい。「セルフィー」と呼ばれる一群の写真がツイッターやインスタグラム等のSNS上で日夜膨大な量をもって投稿され溢れていることは私たちもよく知るところだろう。鏡に映る自分に向けてスマホを構える姿は、鏡に映る自分を眺めながら絵筆を握る画家の姿を彷彿とさせる。きわめて伝統的なセルフ・ポートレイトだ。そうした写真も「セルフィー」には多いが、おそらくそれ以上を占めるのがスマホのインカメラを使用して撮る自画像である。
 このタイプの自画像には特徴があって、実際には鏡を使わないが鏡のように左右が反転している写真が多い。スマホの液晶画面を見ながら撮影するため、反転しているほうが直感的に操作しやすいというのが大きな理由だろうが、撮影後も再反転させ正像にしてから投稿するのではなく、反転したまま投稿することが(特に日本では)多いように見受けられる(本論の関心からは外れるが、全セルフィーのなかの鏡なき反転自画像の割合を示す世界分布は一度見てみたい)。ここに反転への忌避は見られない。この自画像の流行と津田写真の反転批判が両立する状況は興味深いが、今は鏡なき反転像にとどまろう。人の手によらない像であること、自分へと送り返されることなく(反射=反省なき)反転した世界の住人のままでいること、自己同一性よりも操作の簡便さや投稿のし易さといった自動的作業のほうを優先すること、これらすべてがオート・ポートレイトの可能性を示唆している。
 反転した他者の自画像を眺める私はいったい誰なのか。自画像はそんな自問を歯牙にもかけず、ただ浮遊するばかりだ。