写真的排外主義「フォトウヨ」とこれからの写真 文:村上由鶴

magazine 2023-01

※2018年11月に掲載された記事の再掲です

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排外主義の時代に 

 ドナルド・トランプが、国境に壁の建設を訴え、「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」と叫びながら大統領に就任してからというもの、リベラルな価値観に対する揺り戻しが、世界各地で起こっています。EU 諸国でも、ネオナチの流れを汲むような極右政党が躍進しているし、ここ日本でも、排外主義的な考え方の根深さを日々感じます。特に、インターネットを中心に極端に差別的な言説を発信する「ネトウヨ」は、「国粋主義」や「愛国心」などを持ち出しながら、 旧来の日本的価値観に対する変革の動きや、特定の近隣諸国に対する敵対的な発言を繰り返しています。彼らの思想が社会に浸透することによって従来からの「保守的」な思想が捻じ曲がり、排外的な感情が増幅される事態が、日本でも起こっているのではないでしょうか。

 さて、このような「ネトウヨ」的な感性は、政治的な思想にのみあてはまるものではありません。たとえば、「こうあるべき」とずっと染み付いてきた常識を、「それは非常識になりました」と言われたとき、新しい常識を即座に理解し内面化するのは簡単なことではないでしょう。突然現れたように思われる価値観に対する反発、そして排外的な態度は、昔からあるものへの愛着という素朴な感情に端を発していると仮定すると、どんなことがらについても起こり得る反応です。

 例えば、美術においては、クロード・モネら印象派の絵画がはじめて世に出たとき、旧態然とした美術界は「こんなものは絵ではない」と批判しました。その後も、表現の世界において、新しい価値観に対する反発が幾度も繰り返されてきたように、異なる価値観への拒否感から逃れることは簡単ではないのかもしれません。

写真の排外主義「フォトウヨ」

 さて、写真について考えてみると、写真は表現の根幹に機械が関わるメディアであるためか、そうした反発がより目立つように思われます。例えば、「芸術としての写真は白黒写真であるべき」という規範が支配的だった時代に発表されたウィリアム・エグルストンのカラー写真は、その内容ではなく「カラーである」という点において議論を巻き起こしましたし、また、写真のデジタル化に際しては、ウィリアム.J.ミッチェルが「デジタル画像」(*1)、日本では飯沢耕太郎が「デジグラフィ」(*2)と呼びそれまで主流であった銀塩写真に対してデジタル写真を区別して扱ったように、デジタル写真は登場して間もない時は「写真ではなかった」のでした。しかし、いまや一般的な意味でも、表現の実践においても「デジタル写真」が「写真」であることは、疑いようのない事実です。

 また、60年代から90年代にかけてMoMA の写真部門の局長を勤めたジョン・シャーカフスキーは「写真」を固有の美的価値を持つ表現形式として確立させることに取り組みました。彼は、「写真家の眼」展において、「事物それ自体」「細部」「フレーム」「視点」「時間」という5つの評価基準を写真固有の美的価値と定め、これに対応する写真を高く評価しました(*3)。一方で、モホイ=ナジのフォトグラムなどの抽象性の高い写真や、ファイン・アートのアーティストによる作品の一部に含まれる写真については、5つのうちのどれにも当ては まらなかったために、写真術を用いたものであっても、「写真」としては評価しませんでした。

 このように、写真のあらゆる可能性のなかから、「特定の」写真観を保持し、新しい技術や表現を否定する原理主義的な反射神経が、写真に関わる人々の一部には浸透し、定着しているようです。こうした、排外主義的な写真の実践(者)を見ていると「愛国心」を盾に排外的な思想を推進する「ネトウヨ」を想起してしまいます。彼らは強い排他的思想を持ち、時には、美術界における印象派登場時の反発のような言説を用いて写真が拡張することに抵抗するか、全くの無視を決め込んでいます。

 例えば、銀塩写真独自の工芸的な美学を至高の写真として、現代の多面的な写真表現を批判する「メイク・アナログ・グレート・アゲイン」的実践や、トリミングや撮影後の修正を認めない撮影至上主義、被写体への搾取さえも肯定する作家主義的な日本発の写真表現としての私写真への信奉など、日本の写真の世界にはさまざまな形で、新しい写真を否定する「フォトウヨ」的感性が根を張っています。彼ら「フォトウヨ」は、自分の表現が脅かされたり古びたりすることがないよう、新しい写真に対して排外的な態度を示し、壁を築こうとしていると言ってもよいでしょう。

 確かに、アナログ写真の技術の衰退は高精細のプリントが持つ階調の美しさや、特定のフィルムが持つ色の特徴などのアナログ写真特有の美学を衰退させてしまうかもしれません。しかし、アナログ写真の技術によって作られた数々のグレートな作品をわたしたちは知っています。ノートリミングでスナップ撮影された写真を見れば、瞬間との出会いとそれをとらえる技術に驚嘆し、決定的瞬間の再生という写真鑑賞の根源的な喜びが湧き上がります。また、「私写真」は、もろくはかない関係性や美が輝く特別な瞬間をすくいとるような写真的行為として写真史に残っていくでしょう。しかし、それは「フォトウヨ」による、「これこそが写真である」という「写真」の囲い込みや「これは写真ではない」という否定の身振りによってなされるものではありません。

 確かに他の表現の歴史も、既存の表現を否定し、退け、乗り越えることで進歩してきました。しかし、このように表現の歴史を進歩させた「否定」は、その対象への学びのうえに存在します。敵対する実践を学ばずして行われる反知性的な否定は、他の実践を蔑むことによって自らを正当化する身振りであり、結局のところ、自身に自立的な価値がないことを露呈しています。つまり、「○○以外は写真ではない」「○○が写真である」と写真概念を限定する態度は、写真表現そのものを孤立させ、質を低下させ、他の分野から無視される芸術へと追いやる事態を招くのです。

変化する「写真」と多様性

 ここまで芸術としての写真表現を中心に論を進めてきましたが、もちろん写真は、報道、記録、証明、広告などの社会的な役割や用途があります。こうした、「実際の」使用のされ方も「写真」の無視できない一面です。近年では、インスタグラムの登場が、写真を撮影しシェアする行為を消費行動の動機付けに変容させ、スマートフォンの普及は、長らく職能としてプロフェッショナルの技術であった写真術を親指一本で可能にしました。プロによる写真に劣らない写真がおびただしい数生まれ、「一億総カメラマン」は現実のものとなっています。それにとどまらず、いまや AI も Google Map を旅行して写真を撮影し(*4)、写真の民主化は人間以外の存在にまで行き届いています。

 こうした写真にまつわる変化に応じて、写真の実践者は、いまやその対象を「写真」というより「写真的行為」に向けています。「写真的行為」への着目は、これまで考えられてきた写真概念をある部分で裏切りながら、何らかの「写真的行為」に根ざすことによって写真の概念を拡張することへとつながっていきます。自分以外の人が撮影した写真を用いた表現や、モホイ=ナジの実践でもあったカメラを使わない写真的実践、撮影以外のプロセスに重点を置いた実験的作品など、具体的な像を結ばない抽象表現も珍しくなくなりました。こうした「写真の拡張」の実践は、2000年代後半から顕著になって来ていて、先駆的な写真表現における前提となりつつあります。

プラットフォームとしての「写真」

 このような新しい写真の環境を目の前にしてその混沌とした有り様に途方に暮れてしまうのは、内面化された「写真」への素朴な愛着によるところもあるでしょう。しかし、この素朴な排外主義が、「写真」を単一の概念として、まるで「単一民族国家」であるかのように扱うことで、写真に関わる多様な表現を分離させてきました。いま、その行き詰まりが「フォトウヨ」的感性として極端な排外主義のかたちで現れている気がしてなりません。

 現代の「写真」は、複雑なアイデンティティと枝分かれしてねじれた歴史が耕した豊かな土壌を育んでいます。写真家、写真史家、写真批評家、アーティスト、美術批評家、そして一般の写真を使う人々、そして社会からの写真に対する要請など、写真は多様に存在します。また、写真は、表現の世界において技術的な制限や性別などの障壁を開放した立役者でもありました。つまり、このような多様なあり方と複数の歴史を持つことをこそ、写真の固有性として認めることができると考えられます。

 この固有性のなかには「写真」を拡張する表現はもちろんのこと、被写体との関係性を重視するプリミティブな写真のあり方も含みます。一方で、無限のふろしきのように「多様性」を大きくひろげすぎてしまうことにも注意を払わなくてはいけません。どういった理由でそれを「写真」とするのかということは、検証される必要があります。しかし、まずは排外主義的な感性から一線を画した可能性の豊かさをこそ守り、推進していくことが、写真をパラダイス鎖国的かつガラパゴス的な表現形式にしないための方法ではないでしょうか。写真を、否定よりは承認の芸術として解釈し、豊かな可能性のプラットフォームとしてひらくことを排外主義が蔓延る時代の写真表現に求めたいと思います。

 


*1 ウィリアム・J・ミッチェル『リコンフィギュアード・アイ—デジタル画像による視覚文化の変容』伊藤 俊治監修、福岡洋一訳、株式会社アスキー、1994年(William.J.Mitchell, The Reconfigured Eye, The MIT Press, 1992)
*2 飯沢耕太郎『デジグラフィ — デジタルは写真を殺すのか?』中央公論新社、2004年
*3 ジョン・シャーカフスキー「『写真家の目』序論」1966年、『写真の理論』甲斐義明編訳、2017年、月曜社、pp. 11-26
*4 「Google is using AI to create stunning landscape photos using Street View imagery」,THE VERGE,