春の胎内潜り:芽吹く身体の眼差し 志賀理江子「ヒューマン・スプリング」展 文:難波阿丹

paper 2023-01

※2019年5月に掲載された記事の再掲です
2019/3/5〜5/6にかけて東京都写真美術館で開催された、志賀理江子「ヒューマン・スプリング」展レビュー

Subscribe ✉️   Share 👏
Follow on   Instagram  Twitter
iiiiDは写真にまつわる作品や論考
を掲載するウェブマガジンです

 志賀理江子は、人々の眼差しを追いながら、「身体に潜む生物としての勘」(*1) のようなものを働かせつつ、作品制作を続けている。2019年3月から5月にかけて、「春」に立ち上げられた東京都写真美術館の展示「ヒューマン・スプリング」には、各パネルの表・左・右・裏面と異なる写真が貼り付けられたインスタレーションの圧倒的な存在感と共に、氏がこれまでに集めてきた人々の眼差しが、静かに、それを目撃する立場の者との距離をつめてにじり寄ってくるような不気味さが刻印されている印象を受ける。

 展示場に足を踏み入れるとまず視野に入るパネル01正面が、「人間の春・彼には見える」というタイトルが付された写真である。そこでは、半裸の男性が上空を見上げている。彼の真上には暖色の照明を受けて鮮やかな木々の葉が垂れているが、彼の眼には「春」が映っているのだろうか。その顔つきから、眼差しの向かう先を想像せずにはいられない。全パネルの背面に貼り付けられた「人間の春・永遠の現在」にも、上半身をはだけた男性が、まっすぐにこちらを眼差しているようすが写されているが、その視線の向かう先は漠として見極められない。彼の視点の在り処は定かではなく、対峙する写真家や、私たち自身を見つめているようにも受けとれるし、彼方へとその眼差しが照準する先がずらされており、虚空へと差し向けられているかのような不確かさも受け取られる。

 展示にはパネル08左、11左「人間の春・目を合わせたらいけないよ、目があったら必ずこっちにくるからね」とあるように、眼差しがそれを受けとめる者へと肉薄し、接近する感覚を伴って、掲示された写真も登場する。それらの写真は、観る者の目や耳や皮膚によって受けとめられ、視覚、聴覚、触覚等が混交したなかで像を結び、春に覚醒する身体において感知される予感のようなものを提示しているとも捉えられるのではないか。そのうえ、展示は、等身大を超えるパネルの物質的な重量感と共に、目に見えるものではなく、むしろそれまで目に見えていなかったものを抱擁するように示していく。身体的に記憶された光景を導き出す写真の暴力的な包摂性について、志賀は「亡霊」と題するエッセイで下記のように言及していた。

 人間社会ではあらゆる「もの」がつくられた。写真もそのひとつだ。つい先ほどまで目の前に広がっていた風景や、自身の姿は、印画紙に焼かれ、手に触れるものとなった。初めて写真を見た人は、恐れ慄いたと言う。それは、鏡やガラスや水面に映るあらゆる像や、描かれた絵や線と、何がどう違っただろう。誰かが「心」の在り処である己の身体に直接手を突っ込み、何か記憶に似たものをえぐり、掴んで引きずり出したような(*2)。

 今回の展示は、このように「記憶に似たもの」を引きずりだす「spring(春)」の暴力的な覚醒を孕んでいる。冬の間には秘匿されていたそれらが、「春」に溶けだす人々の身体や感情によってとめどもなく吐露されていくようだ。過酷な冬を経て訪れる東北の「春」は、東日本大震災の被害による幾多の命の喪失という痛みを包摂しながら、しかし、生命体のもつ芽吹きのエネルギーをも放出している。身体の芽吹き、すなわち覚醒とは、おそらく志賀が経験した出産時の光景とも重複する。彼女は、それまで胎内にいた「彼」が現れた瞬間のことを「春」になぞらえて語っている。

 腹にいた彼が目前に現れたことで、私たちに新たな時空が訪れた。私は布団の上で途方に暮れた。春、桜は一瞬にして咲き、散る。しかし、木の前に立ち、その様子をずっとひとときも休まず、瞬きもせず見つめていたのなら、それはほとんど認識できないほどにゆっくりだ。この一瞬かつ永遠にも近いような、驚くべき空間が私と彼の間に生じ、圧倒された(*3)。

 このような出産時の「spring(跳ねる)」身体同士の交流は、志賀にとって、写真を撮影する行為にもなぞらえうるのかもしれない。写真を撮るとは、おそらく、被写体との間に「一瞬かつ永遠にも近いような、驚くべき空間」を生じる振る舞いなのだ。そして、「永遠の現在」と呼びうる時空間は、過酷な冬の期間中に狂おしく待ちわびられてきた「春」という季節として、東北の人々の前に繰り返し立ち現れてきた。パネル19正面の「人間の春・食物連鎖」に象徴される「殯」の儀式で、微生物の活動が活発化し有機体が発酵することで、遺体が朽ちていくさまは、感知できないほど徐々に進行し、次の生命の再生へと受け継がれていく。それは、死と生が一体となりながら交錯し、反転するかのごとく爆発的なエネルギーを発する場でもあり、まさに東北の「春」を代表するにふさわしい光景である。

 「ヒューマン・スプリング」には、震災の記憶を包摂する特異な東北の地域をめぐって、喪失を孕んだ再生のいくつもの物語が登場している。パネル06右あるいは、11右「人間の春・皆違う歌を歌う」に表されるごとく、それぞれの人々の眼差しは交わることなく、永遠と繰り返されてきた「春」という現在において、異なる歌を口ずさんでいる。個人が紡ぎ、歌い続けている「春」が、写真によって繋ぎ合わされ、その胎内記憶を潜り抜けていくような展示空間となっている。そこに表れている人々の身体は、死に向かいながらも、それを梃子として生へと飛翔するかのような、躍動的な様相を与えられているのである。

 


*1 志賀理江子『ブラインドデート 展覧会 テキスト』T&M Projects、2018年、8頁。
*2 同書、20頁。
*3 同書、19頁。