iiiiD 06.2020

magazine 2020-06

フラットネスをかき混ぜる🌪(1)
二次元平面でも三次元空間でもないフラットネス🚥
文:水野勝仁

すべてそれらのフラットネスのために

目の前の空間を見て、そこに手を伸ばしても、空間のなかにあるモノに触れることはできない。そこで、目の前の空間にスマートフォンをかざして、カメラアプリを起動する。そうすると、スマートフォンのディスプレイに目の前の空間とそこにあるモノが表示される。ディスプレイに表示されたモノに触れてみる。指がディスプレイのガラスに当たるとともに、触ろうとしていたモノのイメージに触れる。モノが存在する三次元空間そのものが、ディスプレイという二次元平面へと変換された結果、指はモノとその周囲の空間との区別がなくなったのっぺりとしたイメージに触れている。

スマートフォンのカメラアプリを起動したときのディスプレイに限らず、写真は三次元空間を正確に二次元平面へと投影して、定着させていくものである。このことは今では当たり前の変換になりすぎて、誰も驚きはしない。しかし、三次元空間が二次元平面に変換されるとき、三次元空間がもつ奥行きの情報は失われていて、さらに、二次元平面に変換されたモノとその周囲の空間を見る者は、そののっぺりとしたイメージから否応なく三次元空間を復元するようになっている、ということは驚くべきことではないだろうか。

Photoshopで加工した痕跡を大胆に残す作品を制作するルーカス・ブレイロックは、写真について以下のように書いている。

写真は、すべてそれらのフラットネスのために、純粋に混成の空間を示唆する:それは二次元と三次元、表面平面とそのなかの空間、それだけでなく、抑制、魔術、死、歴史、目撃とほんのいくつかあげてみただけだが、多くのメタファーとなっている。(*1)

ブレイロックは印画紙にプリントされた写真であれ、ディスプレイに表示された画像であれ、それらがすべて二次元平面でイメージを提示し、そのイメージから三次元空間が立ち上がるという写真の前提を端的に指摘している。しかし、私は二次元平面でもなく三次元空間でもない「フラットネス(=平坦さ)」という言葉に奇妙な感じを持ち、この言葉を用いた「すべてそれらのフラットネスのために〔for all their flatness〕」という一句に惹かれている。写真というものが提示される紙やディスプレイといった二次元平面、そして、写真が見る者の意識に否応なく立ち上げる三次元空間、このいずれもが含まれる写真のフラットネスとは何なのだろうか。そして、私はPhotoshopを自在に扱うブレイロックの作品のようなコンピュータと強く結びついた現在の写真を見ると、「二次元と三次元、表面平面とそのなかの空間」からはみ出していくような奇妙な感じを覚える。この次元を跨ぐような奇妙な感覚は、今のところ私が感じているものでしかない。しかし、この感覚を頼りに写真のフラットネスを考えていきたい。なぜなら、その先に、写真をめぐるあたらしい言説があると思っているからである。

ブレイロックの作品の分析は次回に行うとして、今回はその準備として写真を表示するディスプレイの基本単位であるピクセルと色情報からコンピュータと結びついた写真のフラットネスを考えるなかで、連載における私の基本的スタンスを示していきたい。


ピクセルには幾何学が関係していない

ルーカスフィルムのコンピュータ部門やピクサーを共同設立したコンピュータ科学者、アルヴィ・レイ・スミスはピクサーのアニメーションとデジタル写真を比較して次のように指摘している。

ピクサーのコンピュータ・アニメーションは、幾何学が基盤となっている。 セットとキャラクターとは幾何学的要素で定義され、時間とともに連続的に移動すると想定されている。 しかし、デジタル写真を考察してみると、そこには幾何学は関係していない 。「現実世界」は直線グリッド上のセンサーの配列でサンプリングされている。(*2) 

ここで書かれているのはベクター画像とビットマップ画像という二つの画像の形式についてである。ピクサーのアニメーションやグラフィックソフトのIllustratorは「幾何図形を作成するための情報を数値や式として表現 (*3) 」するベクター形式であるのに対して、デジタル写真は「画像をドットマトリクス状のピクセル群として捉え、RGB等の表色系に基づいたピクセルの色・濃度の値の配列情報として取り扱う(*4)」ビットマップ形式となっている。スミスはこの二つの画像形式を対比させるときに「幾何学」を重要視し、デジタル写真に幾何学が関係していないとわざわざ指摘する。(*5)  それはビットマップ画像とベクター画像とのあいだに起こる一つの混同を防ぐためである。

人々がしばしば二つの空間を混同することは、ピクセルの概念についての通常の考え方から明白である。多くの人は、ピクセルは小さな幾何学的な正方形であると考えているけれど、そうではない! ピクセルは個々の点でのサンプルである。それは幾何学(な形)を持たないのである。(*6)

ピクセルは「小さな幾何学的な正方形」ではなく、離散的なサンプルを示すものでしかない。物理空間から光をサンプリングし、そこから色情報を抽出して、赤・緑・青(RGB)の光を明滅させて、パターンをつくり出す。RGBという組み合わせでピクセルという正方形の形をつくり、その正方形の集積が画像をつくると、多く人は考えている。しかし、アルヴィに従えば、ピクセルは位置情報(X, Y)と色情報(R, G, B)を個々にもつ別々の点でしかないので、ディスプレイはピクセルという小さな正方形が集まって形成された二次元平面ではなく、幾何学的な要素は一切持っていない色情報の集積でしかない。ブレイロックが「フラットネス」と呼ぶものは、ディスプレイにおいては二次元平面という幾何学的な形態ではなく、色情報の集積として考えるべきなのである。私たちはディスプレイが示す色情報の集積を見るときに、そこに一つの画像という二次元平面を見て、そこにさらに三次元空間を見ているが、そこには平面と空間を組み立てる幾何学的要素は一切関係していないのである。

ここで、ディスプレイのピクセルが示す色情報の集積について、哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが提唱する情報の二相理論を参照して考えてみたい。

ホイーラー(Wheeler 1990)の提案によれば、情報は万物理論において基礎的なものである。この「すべてはビットから(it from bit)」という教義によれば、物理学の法則は情報の観点から描くことができる。ここでは、結果において差異を生みだす状態の差異を措定しなければならないが、その状態が現にどういうものであるかを実際に特定しなくともよい。重要なのは情報空間における位置だけである。そうであれば情報は、意識の基礎理論においても役割を果たすものとして、自然な候補となる。こうして導かれる世界観は、情報こそが真に基礎的なものであり、そして情報は物理的なものに対応する側面と世界の現象的特徴に対応する側面という基本的な二側面を持つ、という世界観になる。(*7)

ホイーラーの「すべてはビットから(it from bit)」という言葉から、チャーマーズは情報を基礎的な存在に位置づけ、さらに情報を物理的な側面と現象的な側面とに分ける。チャーマーズの情報の二相理論は彼自身が思弁的すぎるものであり、さらなる考察が必要だと考えているものである。しかし、コンピュータという情報を扱う装置と強く結びつくようになった写真を考える際に、情報の二相理論がよいガイドになってくれるだろう。なぜなら、コンピュータと密接な関係を持つようになった現在の写真もチャーマーズのように情報を基礎的なものとして考え、「すべてはビットから(it from bit)」という観点で一度捉え直す必要があると、私は考えているからである。

カメラとコンピュータとが結びつくことではじめて、写真はレンズの前の物理空間を二次元平面に変換する存在ではなくなり、光がグリッドに配列されたセンサーに接触することから得られた色情報を操作するものになった。このとき、カメラが捉える物理世界は色情報の初期値として処理されるものでしかない。カメラは物理空間をセンサーでサンプリングしていくが、そのときに重要なのはグリッドに配列されたセンサーの位置と光の波長の強さであって、その光が反射してきたモノそのものではない。グリッドに配列されたセンサーがつくる情報空間における位置と光の強さが色情報として保存される。そして、色情報に物理的に対応するものとしてディスプレイのピクセルがある。ピクセルは物理空間からサンプリングされた色情報をディスプレイに具現化していき、同時に、具現化された色情報を見る者の意識においては、二次元平面の写真という現象が立ち上げられ、その平面からさらに三次元空間そのものが現象として起こっていると考えられるのである。


二次元平面と三次元空間からはみ出すフラットネス

ディスプレイを見るという体験は、色情報というビットがつくる二次元平面でも三次元空間でもないフラットネスからすべてが始まる。コンピュータとディスプレイは光を自由に制御して、ピクセルによる膨大な色情報の組み合わせを可能にした。その組み合わせのなかでは、物理空間からサンプリングした色情報を既存の幾何学的要素に当てはめることもできるが、そこからはみ出すように色情報を組み合わせることも可能になっている。コンピュータとディスプレイとが色情報のあらたな組み合わせを可能にする物理的な側面としてあり、同時に、あらたに組み合わされた色情報からこれまでにない現象的な側面が生まれている。

結局、写真家が作り出そうとしているのは、以前にはけっして存在しなかったようなさまざまな事態です。しかし、彼はそのような事態をその外にある世界のなかに求めるのではありません。なぜなら、彼にとって世界は作り出すべき事態のための口実にすぎないからです、彼は装置のプログラムに含まれているさまざまな可能性のなかに事態を求めています。そういう意味では実在論と観念論という伝統的な区別は、写真によって乗り越えられます。つまり、現実的なものとは、外にある世界ではなく、装置のプログラムの内にある概念でもなく、まずは写真です。世界と装置のプログラムは、画像にとって前提にすぎません。世界と装置のプログラムは、現実化されるべき可能性なのです。ここで、意味のベクトルの転倒が問題になります。意味(指し示されるもの)ではなく、指し示すもの、つまり情報、シンボルが現実的なのです。意味のベクトルのこのような転倒は、すべての装置的なものと産業主義以後の状況にとって特徴的なことです。(*8)

色情報を写真のフラットネスと考えると、メディア理論家のヴィレム・フルッサーが指摘するように、写真を構成する色情報そのものが現実であり、そこから二次元平面や三次元空間からはみ出すようなあらたな現象が平面や空間といった根本的な幾何学的要素とともに立ち上がってくるようになっていると言えるだろう。もちろん、これを実感することはとても難しいことである。しかし、Photoshopで色情報のフラットネス自体を操作することが可能となった写真は、これまでの三次元空間を二次元平面に正確に変換して、再現するという縛りから解放されている。コンピュータとディスプレイという情報を操作し、具現化する装置のもとで色情報のフラットネスを加工してつくりだされている写真は、これまでの二次元平面と三次元空間とのあいだの正確な変換に留まることがない色情報の組み合わせをつくり、見る人の意識において、あらたな現象を立ち上げようとしているのである。

ルーカス・ブレイロックの作品は二次元平面と三次元空間からはみ出すフラットネスを作成する試みの一つだと言える。ブレイロックは、ディスプレイに表示される色情報を操作するというよりも、Photoshopのさまざまなツールでのっぺりとしたフラットネスをかき混ぜるという感じで、グチャグチャにしていき、写真を物理空間との結びつきから引き離していく。そして、サンプリングされた世界を具現化するディスプレイの色情報のフラットネスがかき混ぜられ、二次元平面と三次元空間とのあいだからはみ出していくような多次元の現象が立ち上がってくると考えられる。このプロセスを次回は考察していきたい。

*1  Lucas Blalock, ‘DRAWING MACHINE’, “Foam Magazine #38: Under Construction”, 2014, p. 208.
*2  Alvy Ray Smith, ‘A Taxonomy and Genealogy of Digital Light-Based Technologies’, Sean Cubit, Daniel Palmer, Nathaniel Tkacz ed., “Digital Light”, 2015, p. 25.
*3 ビットマップ画像、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%E7%94%BB%E5%83%8F(最終アクセス 2020年3月21日)。
*4 同上URL。
*5 岡崎乾二郎もビットマップ形式の解像度をタペストリーの織りの細かさに似ていることを指摘して、ビットマップ形式の画像は幾何学に還元できないとしている。この点については、連載の別の回で扱う予定である。岡崎乾二郎編著『芸術の設計』、フィルムアート社、2007年、238頁。
*6 Smith, p. 26.
*7 デイヴィッド・J・チャーマーズ『意識の諸相(上)』、太田紘史・源河亨・佐金武・佐藤亮司・前田高弘・山口尚 訳、春秋社、2016年、32頁。
*8ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために──テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』、深川雅文訳、勁草書房、1999年、47−48頁。

水野 勝仁 1977年生まれ。メディアアートやインターネット上の表現をヒトの認識のアップデートという観点から考察しつつ、同時に「ヒトとコンピュータの共進化」という観点でインターフェイスの研究も行っている。主なテキストに「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」(MASSAGE MAGAZINE)、「インターフェイスを読む」(ÉKRITS)など。