iiiiD 05.2020

magazine 2020-05

机上の写真論:DeskTop Photographing(はじめに)
文:調文明

 写真はふたつの科学技術が出会い生まれた近代文明の申し子と言える。そのふたつとは光学と化学である。光学はカメラ・オブスクラとして、化学は感光物質として写真の主要な構成要素を担ってきた。両者の邂逅はドラマチックですらあり、16世紀に登場したレンズ付きカメラ・オブスクラは18世紀に発見された感光性と出会い、そして19世紀に写真が発明されるという、出会いにも誕生にも気の遠くなるような長い年月が重ねられていった。

 こうして積み上げられてきた写真の歴史は、絵画や彫刻とは異なり、最初の発見者や発明者を「特定」できる(とはすなわち、起源を主張できる)と確信し、事実その確信のもとに写真史が編まれている。フランスのニエプスやダゲール、イギリスのトルボットなどはすでに耳馴染みのある名前だろうし、彼らが写真の最初期の発明者だということはすでに「常識」となっている。しかし、当時の文献を詳細に分析してみると、写真術が公表される以前の19世紀初頭から自薦他薦を問わず多くの発見者や発明者とされる人物の名前を挙げることのできる可能性が生じることになるとしたらどうだろう。写真史家のジェフリー・バッチェンはこうした写真前史に登場する人物たちを「原写真家」と呼称し、フランスの思想家ミシェル・フーコーの考古学的方法を援用して、独創性の起源を辿るのではなく普遍的な規範の始まりを詳らかにする (*1) 。そこでバッチェンは写真の真の発明者は誰でいつなのかという従来の写真史が「盤石」と捉えていた写真の起源ではなく、「写真を撮る〈欲望〉」がいつ頃普及し始めたのかを写真術公表の1839年以前にまで遡って明らかにしようとした (*2) 

 バッチェンが「写真を撮る〈欲望〉」に注目する限りにおいて、その欲望にはきまってカメラ・オブスクラの存在がまとわりつくことになる。バッチェンがとりわけイギリスのトマス・ウェッジウッド(イギリスの著名な製陶業者の息子)にこだわるのも納得がいく。ウェッジウッドが写真史上でとりわけ重要なのは、1717年にドイツの科学者ヨハン・ハインリヒ・シュルツェが発見した硝酸銀の黒色化現象を利用し、「複写」という方法でイメージを定着させようと試みたところにある。だがウェッジウッドの欲望は単なる「複写」に終わらず、さらなる先を見越していた。1802年の『王立科学研究所紀要』第一号に発明者トマス・ウェッジウッド、報告者ハンフリー・デーヴィーの名前で「硝酸銀への光の作用によって、ガラスに描かれた絵を複写し、プロフィールを作成する方法についての報告」が掲載されたが、そこにはカメラ・オブスクラでの撮影が目論まれていた(が不成功に終わった)ことが書かれている (*3) 

 しばらくすると、カメラを携えた人物の「写真を撮る〈欲望〉」は「目に映ったものを写真に撮る〈欲望〉」となり、自ずと狭い実験室から広大な外界へと飛び出していくことになるだろう。「photography」「heliographie」がいずれも「光」や「太陽」といった外界の自然を志向する言葉を自らのうちに含んでいることは注目すべきことだと思われる。19世紀半ばに公表された写真術は瞬く間に世界を駆け巡り、あらゆる国と地域(宇宙も含め)を風景に変え、あらゆる時代の証人となり、あらゆる分野の必須の媒体となった。ドイツの芸術家ラースロー・モホリ=ナギが1928年に述べた「文字ではなく写真に通暁していない者が、未来の文盲人であろう」(利光功訳 (*4) )という宣言は今なお古びることはなく、むしろより一層現実味を帯びていると言ってもいいだろう。

 「写真を撮る〈欲望〉」を発動させカメラを携えた写真家たちの足跡は写真(表現)史というかたちで私たちのよく知るところとなっている。フィルムからデジタルへとメディアが変化しても、おそらく何らかの「写真を撮る〈欲望〉」(意識的であろうと無意識的=日常の初期設定になろうと)が発動して写真は撮られ続けるのだろう。だが、近年の動向のなかで、こうした「写真を撮る〈欲望〉」とは別種の動機から生み出されていると思われる写真が同時多発的に登場していることは非常に興味深い。というのも、これがある種の〈規範〉として普及しつつあるかのように私の目には見えるからだ。

 ここで改めて写真の構成要素に立ち返ってみることにしよう。写真は光学と化学が合わさって生まれた近代文明の申し子と先ほど述べた。だが、こうして出会った光学と化学は写真史の記述において果たして「対等」に扱われてきたのだろうか。「写真を撮る〈欲望〉」において化学の立場はカメラ・オブスクラの像を「定着」(ファルス的なカメラ・オブスクラの欲望を定着=着床させることでもある)させる触媒として利用されることが主であり、光学に従属する化学という見方もできよう。それは写真の様々な用語が「光」と関連させていることからも窺い知ることができる。

 だが、写真における化学のあり方はその仕方でしかありえないのか。そもそも、化学の側の欲望は一体なんだったのか。そこで、17世紀におけるシュルツェによる硝酸銀の感光性(黒色化現象)の発見を、経過を追って見ていくことにしたい。シュルツェは自身の発見を報告するために1719年に『Bibliothecae Novissimae Observationum ac Recensionum』誌上で「Scotophorus pro phosphoro inventus: seu experimentum curiosum de effecturadiorum solarium(光をもたらすものの代わりに発見された暗闇をもたらすもの、あるいは太陽光の効果についての興味に値する実験)」と題した論文を発表した (*5) 。彼によれば、2年前の1717年にふとした偶然から硝酸銀の黒色化現象を発見したという。そのきっかけはもともと「燐光phosphorescent」にかんする実験だった。

 シュルツェは硝酸にチョークを入れて溶解させることで燐光現象を発生させるといわれているボールドウィン・プロセス(ドイツの錬金術師ボールドウィンが1677年に発見したという)を試そうと、たまたま手近にあった硝酸を用いたが、実はその硝酸には微量の銀が混じっていたのである。その実験を行うため快晴の空のもと窓を開いて準備していたところ、目の前で硝酸の表面の色が暗赤色、そして紫色へと変わっていたという。そこから、シュルツェはボールドウィン・プロセスの実験は脇に置いて、この黒色化現象に取り組むことになる。その後の詳細は省くが、シュルツェの論文のタイトルにある「Scotophorus」とはまさにこの黒色化現象のことを指している。シュルツェの目は(太陽の)光に向かうのではなく、あくまで光を浴びた硝酸の反応のほうに向かうのだ。

 そして、この黒色化現象への注目は写真史においては滅多に言及されない「ある発見」へと私たちを導くことになる。それは、バッチェンが特権的に取り上げるウェッジウッドの実験の1年前にあたる1801年に起きた「紫外線の発見」である。ドイツの科学者ヨハン・ヴィルヘルム・リッターが1800年のイギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェル(トルボットの友人ジョン・ハーシェルの父にあたる)による赤外線の発見に触発されて、可視光スペクトラムの反対側、つまり紫の外側にも不可視の光線があるはずだとして、感光性のある塩化銀を塗布した紙をかざしたところ、見事に黒色化現象が起きたことで不可視光(紫外線)の存在が確認されたのである (*6) 

 シュルツェとリッターが共有している欲望は「目に映るものを写真に撮る〈欲望〉」ではなく、「目には映らないものの反応を見る〈欲望〉」だと言えよう。「Scotophorus」としての写真、外界に飛び出すのではなく実験室に籠もる写真、机上の写真。先ほど述べた近年の動向で観察される別種の動機とはまさにこの「反応を見る〈欲望〉」に他ならない。支持体の上には確かに何らかのイメージなるものが写されているが、それが主題ではなく、そのイメージなるものが産み出される際のアルゴリズム(これ自体は不可視なものである)のほうに力点を置いている、こうした動向が散見される(この動向は連載のなかで明らかにされるだろう)。カメラ・オブスクラという暗箱を通して生成される写真が結局のところ描写や表象のレベルに落ち着くのだとしたら、アルゴリズムというブラックボックスを通して産出される写真は反応のレベルに帰属する。化学から電子工学へと写真の構成要素が変わろうと、いやむしろその変化こそが「反応を見る〈欲望〉」をより強めていると言えるかもしれない。近年の動向は複数形の写真としてのあり方のひとつを、すなわちウェッジウッドとリッターの分岐した道を歩む可能性を示している。

 2020年4月の今、この仮設的な写真論が連載を通して紡がれることを期待して、タイトルを「机上の写真論:DeskTop Photographing」とすることにしたい。

*1 ジェフリー・バッチェン著、前川修/佐藤守弘/岩城覚久訳『写真のアルケオロジー』青弓社、2010年。特に第2章「着想=懐胎」を参照のこと。
*2「したがって私が問いたいのは、たんに誰が写真を発明したのかということではなく、むしろ歴史上のどの瞬間に写真を撮る〈欲望〉が出現し、執拗に現れはじめたのかということである。言い換えれば、どの瞬間に写真は、偶然的な個々の孤立した空想から、明らかに広く普及した社会的な〈規範〉へと移行したのかという問いである。」(前掲書、60頁)
*3https://archive.org/details/tomwedgwoodfirst00litcrich/page/188/mode/2up (『王立科学研究所紀要』第一号に掲載された文章が R. B. Litchfield, Tom Wedgwood the First Photographer: An Account Of His Life, His Discovery And His Friendship With Samuel Taylor Coleridge, including the letters of Coleridge to the Wedgwoods and an examination of accounts of alleged earlier photographic discoveries, London: Duckworth, 1903に再録されている。)『写真のアルケオロジー』48頁。
*4 ラースロー・モホリ=ナギ著、利光功訳「写真は光造形である」『バウハウスとその周辺 II』バウハウス叢書別巻2、中央公論美術出版、1999年、105頁。
*5https://digitale.bibliothek.uni-halle.de/vd18/content/pageview/4921290  (英訳された文章が R. B. Litchfield, Tom Wedgwood the First Photographer: An Account Of His Life, His Discovery And His Friendship With Samuel Taylor Coleridge, including the letters of Coleridge to the Wedgwoods and an examination of accounts of alleged earlier photographic discoveries, London: Duckworth, 1903に掲載されている。 https://archive.org/details/tomwedgwoodfirst00litcrich/page/218/mode/2up)
*6 リッターの「紫外線の発見」に対する学問的寄与の再検討については以下の論文を参照。Jan Frercks, Heiko Weber, Gerhard Wiesenfeldt, “Reception and discovery: the nature of Johann Wilhelm Ritter’s invisible rays,” Studies in History and Philosophy of Science, Volume 40, Issue 2, June 2009, Pages 143-156.

調文明 写真批評家/写真史研究者。日本女子大学ほか非常勤講師。写真雑誌などで執筆。『STUDIO VOICE』2018年3月号に「偏/遍在するドキュメンタリー」、『ハーパーズ・バザー』2018年9月号に「日本の今を切り取る新世代フォトグラファー」、『装苑』2019年7月号に「独自性を放つ色彩の表現者たち 日本の写真作家と、色のはなし」を寄稿。