iiiiD 07.2020

magazine 2020-07

連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
写真は私たちの生活に身近であるとともに、写真について検討するためのトピックは日々の暮らしの中にも潜んでいます。この連載は、倉石信乃、清水穣という2人の写真評論家に、日常的なモチーフを介して、そこから見つけられる写真のあり方について述べてもらい、写真について複数の視座から考えてみようというものです。共通のテーマから、それぞれどのような写真性が語られるのか、発見と思考をともに愉しんでもらえたらと思います。
(企画/編集:松房子)

連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
第1回 観光

*

<faitiche>の成立

文:清水穣

 京都の同志社大学は1875年に新島襄によって創設され、1887年には図書館の前身となる書籍館(現有終館)が設置された。同志社大学図書館の膨大な蔵書の最古層は、この時代に遡るということである。2012年の春、その最古層から6冊の巨大な写真帖が「発掘」され、1冊に付き6枚貼付された合計36枚の古写真について、あるいは貴重な写真ではないかと、図書館の職員から問い合わせがあった。実見すると、写真帖の表紙には『Picturesque America』とあり、その題名の通り、アメリカ西部の有名な風景の大判写真を収めたものである。当時、アメリカ西部を旅行した日本人が、現地で観光写真を購入し、帰国後に日本語の説明を添えて写真帖に綴じたようである。大判写真はすべて鶏卵紙プリントで、だいたい40cm x 50cmすなわち16 x 20 inchの大きさ、そしてそのなかの数点のイメージには見覚えがあった。予感を覚えつつ見ていくと、写真帖の6巻目の最後に、写真を購入したギャラリーの宣材写真と思われる1点が見つかった。

観光_清水原稿


モントレー周辺の名所の写真がセットで額装されてイーゼルに立てかけられ、そこには「Watkins. 427 Montgy. St. S.F.」とある。すなわち目の前にある36枚の古写真は、なんとあのカールトン・ワトキンス(Carleton Eugene Watkins (1829-1916))の写真かもしれない、と。そこで、2011年にGetty Instituteから刊行されたワトキンスの巨大プリント(通称マンモス写真)のレゾネ (*1) と突き合わせてみたところ、23枚がワトキンスの写真であった。ワトキンスは当時最も有名な写真家であったので、複写プリントが横行していたことに加え、1875年には、ワトキンスの友人にして彼の「ヨセミテ・アート・ギャラリー」の大スポンサー、ウィリアム・ラルストン(William Chapman Ralston, 1826-1875)が破産したために、その煽りを受けて、借金の形としてギャラリーのみならずそれ以前のすべてのガラスネガ(通称「Old Series」)とプリント・販売の権利を没収されてしまい、以降、1875年以前の作品については、それらを入手したライバル写真家、イサイア・ウェスト・テイバー(Isaiah West Taber, 1830-1912)がワトキンスブランドでプリント販売したので、写真帖に貼られたプリントが、ワトキンスの写真だからといって、彼のオリジナルプリントとは言えない。しかし、ワトキンスのギャラリーの宣材写真の写真をわざわざアルバムの末尾に加えたのは、元祖ワトキンスの店(もいわば観光名所)で購入した証拠という思いがあったのかもしれず、残りの12枚もワトキンスの写真かもしれない。保存状態が悪いとはいえ、それなら新発見(?!)ということになる。
 オールド・シリーズを取られてしまったワトキンスは、早くも翌1876年から、昔の撮影地点を再訪し、新しく撮り直してガラスネガを作り直すシリーズ(New Series)を開始する。もし、23枚のワトキンスがすべてこの新シリーズであるならば、「新発見」という仮説にも説得力が出るだろう。というわけで、写真帖に収められたワトキンスの写真を、レゾネ番号と製作年でチェックすると、残念ながら、3枚(ユタ州の名所を撮影したもの)はオールド・シリーズであった。モンゴメリー通り427番地のワトキンスギャラリーでそれらを販売することはありえないので、この3枚に関しては、テイバーの店か、観光客相手に名所写真を販売する店で入手したのであろう。とすれば、ワトキンスの写真が含まれていたのもただの偶然かもしれない。
 ワトキンスがサンフランシスコのモンゴメリー通り427番地にギャラリーを開いたのは1879年のことである。1890年代に入ると、ワトキンスの健康(視力)と経済状態は悪化し、1891年にはスタジオを425番地へ移しているので、もし、この写真帖を作らせた謎の日本人が、同時代にアメリカ西部を旅行したのなら、それは1880年代のこととなる。ワトキンスはその後90年代末にかけて完全に視力を失い、1906年のサンフランシスコ大地震とそれに続いた大火災のせいで、またもすべてのガラスネガとプリント作品を失ってしまう。写真家がその衝撃から立ち直ることはついになく、最晩年の10年はほぼ廃人となって精神病院で暮らし、そこでひっそりと息を引き取った。つまり、謎の日本人が、同時代よりも後に、観光客向け写真として流通していたプリントから36枚をランダムに買い求めたらワトキンス写真が入っていたのだとしても、プリントが鶏卵紙であることからして、大地震後の時代とは考えにくい。やはり1890年代だろう。
 さて、同志社大学の図書館に埋もれていたということは、写真帖の所有者は同志社の関係者だったと推定してよい。そして記録が残っている同志社人で、上の条件を満たすのは、なんと二人だけ、新島襄と徳富蘇峰である。新島襄は、1884年4月〜1885年12月にかけて、二度目の海外旅行を行い、最初の数カ月はイタリアやスイス、次いで1884年の秋からアメリカを旅行して、翌年12月におそらくサンフランシスコから帰朝した。謎の日本人がワトキンスのギャラリーを同時代に訪問したのであれば、それは新島襄である。他方、徳富蘇峰は1896年5月から1897年の6月まで、欧州から北米を漫遊し、サンフランシスコからハワイ経由で帰国している。謎の日本人が、ワトキンスのギャラリーとは関係なく、たんにサンフランシスコで観光客向けの記念写真を買い求めたとすれば、それは徳富蘇峰ということになるだろう。
 とはいえ、アルバムの状態はひどいものである。いったいどこに埋もれていたのか、おそらく正体不明のままにぞんざいな扱いを受けてきたのであろう、本体も写真も劣化が著しい。つまり、もしこれが校祖新島の旅行アルバムであったなら、その記載が全く無いのは解せない。かなり貴重なアルバムとして、当然新島襄の遺品庫に収められたはずだから、正体不明になるべくもない。また徳富蘇峰のものだったとしても、その高名を考えると、やはり扱いが釣り合わない気がする。
 …というわけで、あれから早8年、6冊のアルバムは私の研究室に放置されたままである。

 以上は残念な逸話に過ぎないが、そもそも19世紀末にサンフランシスコを旅行できた日本人がそういるものでもなく、当時は現在よりも遥かに貴重品だったはずの写真帖が、なぜこうまで忘れ去られてしまったのか。それは当然、旅行と写真が、珍しくも貴重でもなくなったからだろう。土産物の観光写真アルバムにすぎない、しかも作者不明だ、と。そのなかに、かつて世界で最も有名なアメリカ人の一人であったカールトン・ワトキンスの鶏卵紙プリントが含まれていたのに全く認知されなかったとしても、宜なるかなである。本国アメリカでさえ、僅かな例外を除いて (*2) 、ワトキンスは忘却されていた。そのルネサンスは1960年代後半から単発的に始まり、ようやく1970年代半ばから本格的になった (*3) 。ワトキンスを打ちのめした1906年の大地震そしてナパの精神病院でひっそりと亡くなった1916年から1970年代まで、この60年ほどの期間、ワトキンスは写真界のディスクールに入れなかった。ストレート・フォトグラフィー〜シュールレアリスム〜ドキュメンタリー〜ストリート・フォトグラフィーが形成する、写真のモダニズムのディスクールに彼の居場所はなかったのである。

 観光という現象を1つのジャンルとして定着させるのは、文学が100年ほど先である。18世紀に成立する「紀行文学」がそれで、旅人が外国の名所旧跡を巡礼し、非日常的で崇高な何かと遭遇する記録である。その要点は、アンチ・ツーリズムである。当時、限られた階級の中での話とはいえ既に観光地廻りが定着し、初歩的な「ツーリズム」が様々に文学的な魅力を掻き立てていた状況において、真の旅行者はまず「アンチ・ツーリズム」を目指さねばならぬ。それは、決められた観光コースを外れ、『A new and accurate Description of all the direct and principal Crossroads in Great Britain』(初版1771年)という旅行ガイドを片手に、自分自身で直に異国の風物を体験しようという、実に文学的な、つまり反文学的な、行為なのであった (*4) 。観光は「アンチ・ツーリズム」という形式によって文学に定着した、と。それに倣えば、観光が写真に定着するのも、「アンチ・ツーリズム」という形式によると考えられるだろう。とりあえずアンセル・アダムズにその代表を務めてもらうならば、そのヨセミテの写真とは、巷にあふれる「崇高」な観光写真とは一線を画した、真に崇高なヨセミテの輝きの表出であり、その1点1点は、手垢のついた人間的欲望(féticheフェティッシュ)から峻別される、無垢の自然が存在するという事実(fait)の証である、と。
 タイトルに挙げたfaiticheとは、この2つを組み合わせた、ブリュノ・ラトゥールの造語である (*5) 。ラトゥールは、近代の基本的な二元論、すなわち差異化された人為の世界と、その外部に措定される無為自然であるがままの世界という二元論が、実際には峻別されえないばかりか、その実、共犯関係にあり、この共犯関係が成立すればこそ、近代というシステム(システムとその外部の峻別、その外部への指向)が可能となっているとして、これを「faitiche」と呼んだ。アダムズはfaiticheが成立した —ヨセミテが国立公園となった— 後の人、ワトキンスはそのシステム以前の人だということである。
 ところで、タイラー・グリーンによる最新の評伝 (*6) が考証してみせるように、ワトキンス(の写真)が果たした役割とは、開拓者と、広い意味での観光客(科学者、鉱脈ハンター、探検家、登山家・・・)の関心を西へ向かわせ、「アメリカ西部」そのものを作り出すことであった。ワトキンスの写真こそが、西部の写真の定型を作り上げ、それが国内外に行き渡るに連れて人々は「西部」の「崇高な自然」を認識し、「西」を目指すようになったのである。この時代、東から北米大陸を横断してカリフォルニア州に入る者はいない。1869年の5月に大陸横断鉄道がようやく開通するまでは、陸路は、ロッキー山脈の東側に広がるあまりにも過酷な自然のせいで、探検家や旅行者の死屍累々であって、ほとんどの移住者は、パナマ経由の船でサンフランシスコに入港した。アメリカ大陸の東部〜南部〜中西部と、太平洋沿岸部のあいだに広がる、想像を絶したスケールの大自然帯は、人間を厳しく拒み、正確な地図すら作らせない、恐怖の暗黒地帯であった。
 この時代は、湿式のコロディオン法と鶏卵紙の時代である (*7) 。ワトキンスが初めてヨセミテに入って、彼の最初の「オールドシリーズ」を撮影するのは1861年であった。ワトキンスは、基本的には絵画と同等の芸術作品としてプリントを仕上げ、額装し、展示販売するのが常であり、つまり、プリントに絵画と同等の大きさを求めた一方で、引き伸ばしによって画像の細部がぼやけることを嫌ったので、当然の帰結として、求めるプリントと同じサイズの巨大なガラスネガが必要であった。その撮影旅行とは、数名のアシスタントとガイドを雇い、撮影機材、現像器具と薬品、何十枚ものガラス板を、往復の悪路で割れることのないように梱包し、それを何頭ものロバの背に積んで、ヨセミテの道なき道へと分け入り、山中にキャンプを張って撮影、移動、現像を繰り返しながら数週間を過ごすという一大プロジェクトであって、基本的にスポンサーがつかねば実現不可能な旅行であった。
 スポンサーがワトキンスを雇って撮影させたのは、ヨセミテに関しては自然誌や地学的関心がメインとなったが、それ以外の地域では専ら西部開拓のためである。彼らはワトキンスの写真や、たいてい同時に制作されたステレオ写真を、東海岸やヨーロッパの出資者に見せて、ファンドレイジングを行い、集めた金で次々と鉱脈を開拓し、ダムを作り、灌漑施設に基づく大農場を経営し、鉄道を引き、観光開発をしたのであった。言い換えれば、ワトキンスのマンモス写真の大部分は、手つかずの大自然を人間が開拓した(=破壊した)記録写真であり、あるいはまた、ヨセミテ渓谷を一枚の絵画に変換した(=観光地化した)記録なのである。事実、アダムズの写真と違って、ワトキンスの写真にはよく人間が写しこまれている。写真の構図を優先して、邪魔な枝を切り払ったりもしている。ワトキンスが真に野生のヨセミテを相手にしていたからこそ、そこに「あるがまま」とか「崇高」の出番はなかったのである。
 ワトキンスの写真は、観光というfaiticheシステムにとっての「vanishing mediator」であったと言えるだろう。それは、ある構造を生み出すために本質的な機能を果たしながらも、そのシステムが一旦出来上がると跡形もなく消えてしまう、そういう媒介物のことである。観光ズレしたヨセミテに対して真の崇高なヨセミテを写し撮るという発想を可能にする観光システムは、ワトキンスの写真を通じて成立したが、まさにそれゆえに、ワトキンスは忘却されたのであった。

*1 Carleton Watkins. The Complete Mammoth Photographs. Weston Naef and Christine Hult-Lewis (Los Angeles: Getty Publications) 2011.
*2 アンセル・アダムズはさすがにご当地人だけあって、自身の企画展(A pageant of Photography, 1940)にワトキンスを含めているが、扱いは大きくない。1967年のピューリッツァー賞を受賞したWilliam Goetzmannの名著Exploration and Empire はその第3章で、まさにワトキンスの時代の西部開拓を論じ、クラレンス・キングなどワトキンス周りの人々を跡づけているというのに、ワトキンスの名前だけはついに登場しないのである!
*3 Alison+Helmut Gernsheim A Concise History of Photography (New York, Grosset and Dunlap, 1965)に登場し、Weston Naef, Era of Exploration. The rise of landscape photography in the American West (New York Graphic Society, 1975)で、その他の開拓期の写真家(オサリヴァン、マイブリッジなど)とともに復活した。1979年にオープンし、現在アメリカの写真ギャラリーを代表する存在であるFraenkel Galleryが、まず取り扱ったのがワトキンスを始めとする19世紀アメリカの写真家たちだった。
*4 例えば18世紀のドイツを代表する作家カール・フィリップ・モーリッツ『あるドイツ人のイギリス紀行1782年』(1783)。主人公は観光コース、すなわち諸都市とそれを結ぶ郵便馬車による点と線で条理付けられた空間を嫌って、イギリスの風土と「直接的に」触れ合うために、あえて徒歩で旅行する。が、まさにそのことによって嫌な目にばかり遭う。共同体の空間的な秩序から逸脱する「分子的」な横断、つまり「文学」に甘んじないその文学性が、徹底的に迫害を受けること、言い換えれば「紀行文学」が成就しない点に、モーリッツの独特さがある。
*5 ブリュノ・ラトゥール『近代の<物神事実>崇拝について ―ならびに「聖像衝突」』荒金直人訳、以文社、2017年。ただし、ここでの援用は、ラトゥールの本論とは関係がない。
*6 Tyler Green, Carleton Watkins. Making the West American (Oakland CA: University of California Press, 2018)
*7 1884年、ニューシリーズの後半から、ワトキンスは乾式に移行する。

清水穣 美術評論家、写真評論家、同志社大学教授。主な訳書・著書に『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』(淡交社、増訂版2005年)、『シュトックハウゼン音楽論集』(改訂新版2002年、現代思潮新社)、『白と黑で―写真と…』(現代思潮新社、2004年)、『写真と日々』(同、2006年)、『日々是写真』(同、2009年)、『プルラモン 単数にして複数の存在』(同、2011年)、『デジタル写真論』(東京大学出版会、2020年)など。定期的に内外の展覧会図録や写真集、「美術手帖」「陶説」といった雑誌に寄稿している。

 

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やさしさについて
文:倉石信乃

1 

 1960年代後半から70年代前半にかけての日本において、メディア批判の書として先鋭的な写真家たちによく読まれた翻訳書に、ダニエル・ブーアスティンの『〈幻影〉の時代』(邦訳1964年)とハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの『意識産業』(邦訳1970年)がある。二書に共通するのはメディア批判としてのツーリズム批判を含み、本来的な「旅行」と「観光」を弁別しようと腐心している点である。ツーリストは「全世界が擬似イベントのための舞台となることを要求している」と説くブーアスティンの観光批判は、東浩紀が『観光客の哲学』(2017年)の中で指摘するように、確かに「単純」で「現在では通用しない」ものだろう。ただブーアスティンが「旅行者から観光客へ」という移行過程の結論として、「われわれは見るためにではなく、写真を撮るために旅行する」と直言している点は、インスタグラム時代の今日でも、依然として味読されて然るべきところがある。「擬似イベント」としての観光を、撮影行為が先取り的に保証してしまうというこの断定は、当時これを読んだ日本の写真家にとって切実な自己批判へと折り返す契機を持っていた。
 『朝日ジャーナル』誌を主戦場の一つとしていた中平卓馬は、こうした擬似イベント論をなぞるようにして、実作においてはツーリズム批判の作品《とらわれの旅》を制作し同誌1972年12月22日号で発表した。カメラをぶら下げた団体旅行の客たちが、時間に追われて旅程を消化し、外部との遭遇よりもあらかじめ入手していたイメージを模倣する行為としての撮影を反復する様子が、あからさまに脱力したカラー写真と風刺的な言葉で戯画的に綴られた。その批判ぶりは確かに擬似イベントの直截的なパロディなのだが、それ以降の中平は、観光以外の旅の可能性を絶えず自問しながらその困難を痛感するうちに、次第に撮影自体の放棄にさえ到り着く。つまり、カメラの視線ではなく「肉眼」でただ見るだけのことをする他はないという強迫的な選択を抱え込んだ。それは「すべてが可視的だ。・・・疑いをさしはさむことのできないように可視的に存在する」(「わが肉眼レフ—1974・沖縄・夏」、1974年)と彼が見なした、沖縄の現実の風景との遭遇において生じた。
 前掲書におけるエンツェンベルガーの観光批判もまた、中平をして、当時の国鉄の推進した観光事業「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンにおけるイメージ戦略に対する批判へと駆り立てた際の、理論的背景の一つを成していた。ただしエンツェンベルガーのメディア論は、ブーアスティンよりも複雑な含蓄を備えている。彼が厳しい批判の標的とするのは、観光それ自体であるよりむしろ、観光に見られる交通手段の発達や大衆化を呪詛し、旅本来の「古きカオスの闇」や「デモーニッシュな力」を理想化しようとする類いの「観光批判」の方だからだ。彼は1950年に書かれたゲルハルト・ネーベルの批評と、その先駆をなす20世紀初頭に書かれたA・I・シャンドの批評をやり玉に挙げて、彼らの言説を「社会的な意味においてだけでなく、ことばの心理的な意味においても、その種の批評は反動的である」と断じ、次のように続けている。

ネーベルが試みるトゥーリズム批判は、実のところ、まさにトゥーリズムそのものである。その批判にひそむイデオロギー、「デモーニッシュなもの」、「原始的なもの」、「冒険」、「処女性」にたいするかれの賛美—これらのすべては、トゥーリズムが宣伝として看板にかかげるものの一部だ。批評家がトゥーリズムにたいして抱く幻滅こそ、かれがトゥーリズムと共有する幻想への回答なのだ。

ここには、ブルジョワの独善的・反動的な教養主義に対抗する、文化左翼の類型的反応として単に切り捨ててはおけない、何ほどかのアクチュアリティが提示されている。観光産業が当の観光批判者と同じ幻想を共有し、むしろそうした批判者をこそ必要としているという構造。それは、70年代初頭の日本において、輸送と情報産業の中枢に位置する国鉄と電通という巨大資本が、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを推進した際に、ソフトなエコロジー運動と親和性を持つほどに、地方の素朴な自然や人情を言祝いだ事績と類同的だ。この広告に登場するのは最新のモードをまとった都市文化の享受者としての若者たちであり、その風俗とライフスタイルを地方への旅にそのまま帯同していく点に新味があった。かかるキャンペーンの言説は結果的に、公害問題を瞞着し、その頃より東北の東海岸に点在し始める、核関連施設や産業廃棄物処理施設の存在にもそれとなくヴェールを掛けてみせた。こうした最も虐げられた地方における、中央からの離隔と放置の固定化は、2011年3月の東日本大震災のような、天災と人災の絡まる遅れてきた大事を待ってようやく衆目に曝され、共有可能となった。言うまでもなく、「本土復帰」後、1972年以降の沖縄もまた、そうした固定や瞞着が、他ならぬ「観光」において改めて強化された最も典型的な地域の一つにほかならない。

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 東松照明が1969年に沖縄にたどり着いた経緯には、愛知県で経験した少年時代の敗戦とそれに続く地元でのアメリカ軍の占領を端緒に、1960年前後から横須賀、三沢、岩国などの「本土」の基地を記録した断続的な過程が前提の一つとしてある。圧倒的な矛盾を抱えた基地のある地域での撮影は、そのまま巨大な負のテーマとの余儀ない対峙や格闘をもたらすが、東松自身が沖縄での取材について、写真集『太陽の鉛筆』(1975年)で、「正直いってぼくは、基地にあって、憎悪と畏敬とある種の懐かしさとが入りまじった複雑な思いにとらわれた。・・・写すという行為は、建前は何であれ、意識するとしないにかかわらず、肯定的に対象を受け入れることを意味している」と述懐している。実際そうした「複雑な思い」は、戦闘機や米兵、黙認耕作地といった基地にまつわる「憎悪」の対象を肯定性の方位へと差し向けて美的な配慮の下に写すという、矛盾した、しかも必然的な美学と政治の相剋・同在という構造を包み、あるいは準備した。東松はさらにほどなく、憎悪と否定の対象ではなく全的な肯定の対象を、とりわけ八重山と宮古の離島の風土と祭りと日常に見出すようになり、その傾向は 1973年3月に始まる宮古島への移住でいっそう強まった。7か月に及ぶ宮古滞在において、東松の写真はいわゆる「観光」から、多重の意味で遠ざかりを示した。

 中平卓馬は東松からの「影響の不安」とともに、キャリア前半の制作を持続したともいえる。1970年前後の一時期において、均一に行きわたる堅固な政治体制の寓意とみなされ、特殊な含意を持つ主題となった「風景」は、中平と同人誌『プロヴォーク』の写真家たち(高梨豊、森山大道、多木浩二)が共用する「アレブレボケ」という技法によって、その形式破壊が狙われた。そこに定着した身体性の痕跡は、東松から慎重に引き継いだ部分がある。だが、有意味な記号の徹底した解体と砕片化へと突き進んだ点で、中平たちはより過激であった。しかし、かかる解体の身振りが主体による叙情的芸術を生み出す操作に過ぎないとの自省を呼び寄せると、技法はもとより写真の実践そのものの存続も、急激に困難に曝された。
 中平にとって、曇りなき現実をそのまま受容・複写しようとする後期の形式が明確に兆すまでには、沖縄という場での経験を待たなければならなかった。沖縄行は、新聞写真を証拠として殺人罪に問われた松永優を被告とする冤罪事件の裁判支援に訪れた1973年が最初である。当時、復帰直後の沖縄本島においては、東海岸でCTS(石油備蓄基地)の設営が、西海岸では75年に開催予定の海洋博に伴う工事が進み、海岸線の自然は著しい破壊を被る一方、地元の経済的利得は期待されていたほどではなく、そればかりか異常なインフレに襲われ、依然として米軍基地は固定化していた。宮古島では若年労働者が島を離れ、過疎化の課題を抱えている。中平は、いま列挙した問題を丹念に剔出する写真と文章のレポートを、1974年の『朝日ジャーナル』誌上に4回にわたって掲載する。そこには記録に徹するという態度がおおむね貫徹されているが、よく注視すれば写真の中には開発によって露出する土地や海岸線の乱れが剥き出しになり、アメリカと日本を呪詛する落書きに着目するなど、視覚内痛覚を刺戟する物質的対象を拾い上げている。
 翌75年に奄美群島、76年に吐噶喇列島を取材した中平は、ちょうど東松が沖縄島から南の宮古・八重山へと転じたのと逆に、北緯27度線を越えて北上したことになる。奄美と吐噶喇において中平は、太陽光の下で事物の色彩と輪郭が明確化する写真を見出しており、部分的な達成ではあったが新たな形式を手に入れる。奄美・吐噶喇におけるカラー写真は、東松が宮古・八重山で得た写真と、眼に映る事物の力強い肯定的な受容という動因・起点において、到り着く結果・成立平面との相違とは別に、一定の共通性を持つと考えてよい。

3  

 度重なる訪問でも、一回限りの淡い接触でも、島と島人から受け取り強く刻印されてしまう名づけえぬ何ものかがある。たとえば訪問者は不定形のそれに「やさしさ」という言葉を与えるだろう。沖縄およびその南北に広く点在する島嶼の文化と政治に、自らの思想的な基盤を構築するための大きな根拠を見出した、大江健三郎や島尾敏雄のような文学者たちもまた、島と島人の「やさしさ」にほだされた。彼らのとらわれもとまどいも、かつての日本だけでなくいまの日本が、島と島人に為している罪科を、「日本人」としての自身が負わなければならないという責務の意識に由来する面がある。おまえはそのやさしさに応答可能な訪問者でありうるか、という自己への問い詰めが激しいほど、あるいは度重なるほどに、自らと島人との間の「国境線」の刻みは深く印され、言い澱みの無底の沼へと落ち込みがちになるのだ。
 写真家にとっても、沖縄という場所に密接に関わる分だけ、そのような境界の画定に対する無為の抗いといえる様相は色濃くなる。しかし写真という物言わぬ平面は言葉の累積とは違う仕方で、移住、長期滞在、頻繁な訪問、短期の観光などそれぞれ相異なる時間と経験の厚みにおいて生まれる、残酷なまでに等価な、全体へと統合されがたい視覚的断片の散らばりのなかで、訪問者以外であることが難しい自己の問いを反復し続けなければならない。従って写真家の旅は、単に観光的ではありえないが、島=人との物理的距離を測定し続けるという、「観光論」的な機制を表現主体に不可避かつ字義的に装着させもする。
 東松は、『太陽の鉛筆』に挿入された断章形式のテクストの冒頭、沖縄の島々をめぐっているときに繰り返し聞いた「ひもじくないか」という島人からの問い掛けを書き留めている。ここで東松は、ひとの生理欲求に訴えかける根底的な「やさしさ」を嗅ぎ取ることを、周囲を海に囲繞されている地理と歴史の条件、すなわちシマの根源的な離隔性の気づきへと渡しかけ、結果「さびしくないか」というもう一つの聞きなしを得ている。ところが、東松は同じ写真集の別のところで、「やさしさ」について、次のようにも記している。

 どれくらい時間がたっただろうか、気がつくと、日が落ちて昼が退いていた。夏は終わりに近く、甘美ないい知れぬ優しさが室内に漂っていた。それは、死の味覚だった。
 1日が移ろい1日が過ぎていく。ぼくはいま、自由と不自由のあいだにあって、幸福でも不幸でもない。シマの生活は、ぼくにとって、あまりにも安逸に過ぎるように思われる。
 東京へ帰ろう!

 シマの日常への埋没から脱する決意が、一挙に固まった時間について綴られる。ここでは「優しさ」が単に人にのみ帰属するのではなく、島という環境そのものの状態性を表す形容であると分かる。島と人とはすでに不可分な、アントロポモルフな関係を取り結んでおり、同じ「やさしさ」の中に来訪者の東松も溶解しかかっていた。このやさしさの受容は、東松をして「これからは好きなものしか撮らぬ」と書かしめたように、主題選択の根底的な転換を促すものである反面、その一種のパースペクティヴの喪失した無時間的な場に身体が浸透されていくことで、制作する主体の危機も呼び寄せている。こうした「やさしさ」とは、ちょうど宇佐美圭司が「プリベンション」と呼ぶ、画家の「描けない」状態=失画症の状態にあって、あえて迂回の手続きを経ることにより、制作へとようやく再帰する契機をつくるための概念=装置と同じような役割を想起させる。
 写真家を近づけもし、遠ざけもすることで、結果的に制作の条件=枷となる「プリベンション」としての「やさしさ」は、中平卓馬の場合、より短期的な接触において感受されている。中平は、沖縄での自身の経験を踏まえ、次に奄美大島、徳之島、沖永良部島へと歩みを進めることで、日本と沖縄の間の文化的な境界線を探ろうとした。特に墓所においてその文化的なハイブリッドに魅せられた中平卓馬は、いつもより率直に「たぶん、ここでは人の死は自然への帰還を意味する。死は生と共存している」と書き、こう続けている。

そして、人々は無際限にやさしかった。そのやさしさのよってきたるものが何なのか、私にはついにわからなかった。おそらく、わたしはこの風景を通りすぎただけなのだ。(『アサヒカメラ』1976年2月号)

留意すべきなのは、中平はこの「やさしさ」という言葉に以前から、格別の輪郭を与えてきたことだ。中平にとってやさしさとは、自らを慰撫し保護してくれる空間や風景の布置と一体になった人情のことであり、その柔らかな質感に強く誘引されながらも、強固に抵抗すべきだという自己司令を受け取るのである。アンビヴァレントなこの言葉は以下のように、1971年、政治的な昂揚が急速に萎縮しつつあった事態とも呼応する形で、寓意を担う風景への叛逆としての写真という「風景論的」なヴィジョンが、徐々に崩れつつあった際にも記された。『プロヴォーク』の休刊からほどない時期のことだ。

今、ぼくの脳裏をかすめるのは風景から物質へということである。風景の外面性をさらに物質の、”防水性”の外面へと思考をつきすすめようということである。あのやさしい風景に入ってゆけない。その風景がいまだもちうる審美性、イメージの介入可能性をこんどというこんどは徹底的にたたきつぶさんがためなのだ。(『デザイン』1972年2月号)

「あのやさしい・・・」というフレーズは、ディラン・トマスの詩篇から採られている。原詩では“Do not go gentle into that good night”とあるものだが、中平はこのフレーズを好んで変奏し、自作のネガとプリントを焼き捨てた経験を記した、小説的なテクスト「インターリュード」(『アサヒカメラ』1976年7月号)のクライマックスでも用いている。その際に綴られた「やさしい夜」とは、「ひとつのゆるぎないリズムをもって生きている」「妻と子供とネコスと呼ばれる猫」から構成された、家庭の時間を指していた。
 中平と東松が沖縄あるいは琉球弧で感受した島=人の「やさしさ」とは、「観光」においても容易に感知しうるにせよ、結局はその時間的酷薄さを裏切り別樣の深みへと編成し直すものだ。その時、訪問者の旅は自足した日常の安らぎとの持続さえ獲得し始めるだろう。「やさしさ」を切断し制作へと復帰する時に、東松は宮古島から東南アジアへと展開した。面白いことに中平は奄美行の後、翌年吐噶喇列島へと北上する一方で、月刊『プレイボーイ日本版』の連載企画の取材のために中上健次に同道して、香港、シンガポール、スペイン、モロッコへと転じている。かくして二人の旅の地図は、またしてもずれながら重なった。東南アジアでの彼らの旅は、それぞれの土地を一瞥で捉え、手放し、擦過していく速度と距離そして態度において、琉球弧における旅に比して、「観光論」的叙述に接近した。その動機付けに刷り込まれていたのは、日本の中心からの国境を越えた軽やかな離脱と流浪、あるいは叛逆と亡命のあえかな寓意である。しかしそのような寓意の使用法は一般に、バブル期へ向かう1980年代には文化産業を広く巻き込んだ、「アジア」を焦点とする大がかりなツーリズムの中に吞み込まれ、半ば忘却されていくのである。

倉石 信乃 明治大学理工学研究科総合芸術系教授。近現代美術史・写真史・美術館学。1988-2007年、横浜美術館学芸員として「マン・レイ展」「ロバート・フランク展」「菅木志雄展」「中平卓馬展」「李禹煥展」などの展覧会を担当。著書に『反写真論』、『スナップショット-写真の輝き』、『失楽園 風景表現の近代1870-1945』(共著)など。