iiiiD 01.2021

magazine 2021-01

連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
写真は私たちの生活に身近であるとともに、写真について検討するためのトピックは日々の暮らしの中にも潜んでいます。この連載は、倉石信乃、清水穣という2人の写真評論家に、日常的なモチーフを介して、そこから見つけられる写真のあり方について述べてもらい、写真について複数の視座から考えてみようというものです。共通のテーマから、それぞれどのような写真性が語られるのか、発見と思考をともに愉しんでもらえたらと思います。
(企画/編集:松房子)

連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)
第4回 伝統

*

「伝統論争」の余白に
文:倉石信乃

 1

 歴史への避けがたい渇望がトリビアの詮索や訛伝の浸透に落ち着くのは、何もポスト・トゥルースのはびこる今に始まった事象ではなく、この国の平時の倣いであった。だから、いかなる細さにおいてであれ歴史との紐帯を仮初めに伝統と呼ぶのであれば、それを保守するにも革新するにも、暴力的な切断といえる出来事が生傷として残っているうちが勝負なのだ。1950年代とはそのような時代ではなかったか。克服しがたい未知の疫病に苛まれているいま現在はといえば、2011年の大震災からの隔たりもさほどではなく、だいいちあのいかがわしい「改元」から間もないにもかかわらず、我々の視覚環境に限ってみても伝統をめぐる批判的な審問それ自体が旧套的であるとして看過され、または浮薄だが嵩にかかってくる新手の「和風」に覆われる、そうした傾きから逃れがたい。
 かくして伝統を召喚する引力を再認識するためには、時間の逆行が不可欠なのであり、たとえば「伝統論争」の舞台となった1955-56年の『新建築』誌をひもとくことは極めて示唆深いことになる (*1)。この論争を編集者・批評家として仕掛けた後1960年代に入るとメタボリズムを牽引した川添登には、伊勢の神宮、桂離宮のほか、民家や当時「ジャポニカ」と称された現代の「和風」建築までを俎上に挙げながら、サンフランシスコ講和条約の発効直後、または朝鮮戦争の休戦直後という時制において、建築における日本の「伝統」を改めて「再起動」する企図があった。写真はその言説空間を支える役割を果たした。すなわち古びた建築雑誌のバックナンバーに収まっている石元泰博の「桂」や、渡辺義雄の「伊勢」の写真は、誌面を支配する伝統を問う言説的亢進のさなかに、構成主義的ともフォーマリズム的ともいえる質を、鮮明に刻印している。二つの作品に限らず、そこには古代から近世までの建築学的語彙を、モダニズムの鋳型に流し込む手際が写真家には求められた。
 「伝統論争」への荷担に際し、写真という分野にも相応の事情はあった。石元が桂離宮を取材したのは1953年のことだ。サンフランシスコに生まれ日本の高知で幼児から高校までを過ごした後渡米し、戦時を日系人収容所で暮らしてからシカゴのイリノイ工科大学で写真を学んだこの写真家が、久しぶりに来日したその年に始まる。石元は実作と教育(主に桑沢デザイン研究所・東京造形大学・東京綜合写真専門学校)を通じ、アメリカ型モダニズム写真のエヴァンジェリストとして、やがて日本に留まることになろう。最近磯崎新が述懐したように、字義通りにインターナショナルな個体であるイサム・ノグチと石元によって、1950年代のこの時期に、「近代の眼で視た日本と言ったらよいのでしょうか、彫刻と写真というふたつの側面から、日本の形が「抽出」されたと考えていい」のであり (*2)、そのような「形」を実作を通じてこの国に提示・教育したのである。
 他方、日本大学芸術学部写真学科で長く教鞭を執った渡辺は、まさに同じ53年の式年遷宮を取材したのを皮切りに、伊勢で生涯で三度の遷宮を取材する。戦後の渡辺は、異国での紀行写真を除けば、古社寺を中心とする建築写真の分野に活動の照準を定めていく。この選択は、伊奈信男らの証言などから、戦時にプロパガンダに関与したことの反省が作用していると見られてきた (*3)。しかし「伊勢」の取材は、戦時以来の文化宣伝を継承した国際文化振興会からの委託によるもので、渡辺は同会の企画による堀口捨己の概説を付した国際出版『Architectural Beauty in Japan』(1956年)に当該の伊勢の写真を含め、参加した写真家の中で最多の写真を提出している。さらに彼は、「伊勢」に先立って1949年写真集『皇居』を制作した後、『東宮御所』(68年)『宮殿』(69年)『迎賓館』(75年)と、続けて国家儀礼の中枢に位置する建築の写真集を刊行した。彼の事績の総体を踏まえれば、報道から建築への主題論的な転換はあるにせよ、「国策」の軸線に沿って自作を配置する、その姿勢は一貫して揺らぐことはなかった。
 渡辺の「伊勢」と石元の「桂」は両者にとって戦後における最初の達成であり、その後のキャリアを規定する代表作であり続けた。1960年石元は丹下健三、ヴァルター・グロピウスとの共著『桂 日本建築における伝統と創造』を、1962年渡辺は丹下、川添との共著『伊勢 日本建築の原形』をそれぞれ出版する。これら二書は50年代半ばの『新建築』を舞台にした「伝統論争」を経由してたどり着いた成果物に数えられるだろう。丹下は石元とのこの共著の序において、「一人の建築家と一人の写真家の心象のなかに生きている桂の記録である」と述べ、「あるものは抽象絵画のような、また抽象彫刻のような表現をともなっているだろうが、どの一齣をとってみても、そこには生活体験からくる知恵と、また生活の底にある情感が、見事な一つの表現になって統合されているのである」とまとめている (*4)。石元が実現した桂の庭園の敷石や、建築部材のクロースアップによる幾何学的構成を、「生活」と関わる知恵や情感と強引に結びつける論理の飛躍には、「伝統論争」時における川添や今和次郎から被った自作およびその建築思考への批判を取り込んで、吸収してしまおうとする手つきが認められる。川添や今による丹下への批判的観点の一つは、他ならぬ民衆の「生活体験」を繰り込めていない、エリート主義的な身振りに向けられたものであった (*5)
 ちなみに渡辺も桂離宮を撮り石元も伊勢を撮っており、そんな作例の交叉から両者の「作風」を比較してみることも可能だろう。その技倆を大いに活用することで実現された『新建築』の誌面構成上の巧みさや、編集上の戦略の奏功ぶりを、褒めそやすことはたやすいし、彼らの1950年代の仕事は確かに、建築史上に残る言説を支える成分となった。だが、彼らほど「サンフランシスコ講和体制下の写真家」であることを体現している者もそうはいない。伝統と現代との接点を探るという名目でなされる歴史化には、政治的なニュートラリティを偽装しつつなされる、危うい審美性への還元の身振りへと、妥協的に陥る脈絡がつねに開けている。ベンヤミンを引くまでもなく、そのような身振りとは字義通りの政治の美学化なのであって、石元や渡辺の写真における「美的」な達成への無防備な賛意は、かかる美学化への追認と歴史的時制の閑却を意味するだろう。

2

 メタボリズム前史に欠かせない逸話と目され、戦後建築史と美術史との蝶番の位置を占めもする「伝統論争」は、価値の衝突を出現させたのか。むしろそれは、各種議論の範例を並べつつ束ねる、いわば「誌上展覧会」を組織する編集=キュレーティングの手際が勝っていたのではないか。歴史に遅れてきた者の側からは、そんなふうに混ぜ返してみる「義務」があろう。
 復習しておくならば、川添は「論争」を惹起するため、丹下健三の「実作」を「伝統と現代」の結節点に置こうとし、丹下もまたその役どころを引き受けた。かかる結節点に措定された実作とは他でもない、1949年に丹下が浅田孝、大谷幸夫とともに応募したコンペで一等を取った広島平和記念公園の計画である。計画の中核を占めるのは、イサム・ノグチのユニークな原案が却下された後、そのコンセプトを引き継いで丹下が完成させた「原爆慰霊碑」のほか、当時「広島平和会館」と総称された三棟の建物、すなわち1955年に竣工した「広島平和会館陳列館」(現・平和記念資料館本館)と「同本館」(現・平和記念資料館東館)、「広島市公会堂」(現・広島国際会議場)であった (*6)。三つの建築の霊感源について、川添が当時「岩田知夫」の変名で『新建築』に寄稿した論文「丹下健三の日本的性格」やその後の回想で述べている議論をまとめると、次のように略述できる。

 「陳列館」のソース=伊勢+正倉院
 「本館」のソース=桂+寝殿造(一部)
 「公会堂」を含む配置全体のソース=寝殿造
 歴史・伝統へのアプローチを可能にした条件=最新テクノロジー、特にユニホーム・ラーメン+コア
 
 「陳列館」のピロティには無論、ル・コルビュジエの参照があるだろう。また、この計画の眼目が、南北の軸線上に手前から「陳列館」、「慰霊碑」、「原爆ドーム」を配置したことにあり、さらにこの「軸線」が1942年に一等を得た、富士と皇居を一直線で結ぶ「大東亜建設記念営造計画」における「軸線」を反復し、かつそれに沿った慰霊の領域の設定をも反復していることはよく知られている (*7)。また慰霊という宗教的な行為における視線の効果に関しては、鈴木博之が指摘するように、近隣の厳島神社の「超越的な」軸線、海上の鳥居から陸上の鎮座地、つまり平地から神域である背後の山へ到るそれもまた、意識されていただろう (*8)
 この論争の中にあらかじめセットされた「対立」は二つあった。一つは弥生と縄文の対立である。丹下の建築とその思想にヤマト王権成立以後の「型」を認める一方、白井晟一や岡本太郎(『日本の伝統』光文社、1956年刊)による当時の主張を巻き込み、たとえば縄文土器や特定の古民家(韮山の江川邸)に弥生文化的な「型」とその洗練を打破する原初的なエネルギーを認めることである (*9)。もう一つは、芸術制作に関する理念としてのモダニズムと社会主義リアリズムの対立である。東西のクラシシズムを咀嚼しモダニズムへと接続する点で、コアなモダニストであり続けた丹下は、この論争をくぐり抜けることで、自らに向けられた批判をソフトに吸収していつの間にか自らの主張へとすり替えつつ、しかもこの二つの対立項から超然とした位置を占めるべく巧みに振舞った。先述した石元との共著『桂』と渡辺らとの共著『伊勢』の2冊の書物において共通するのは、解説を執筆した丹下が伊勢の神宮と桂離宮にそれぞれ、弥生的なものと縄文的なものの弁証法的な統合を見出している点である。丹下は縄文的なものは、例えば伊勢や桂の造形理念の中にすでに組み込まれたものと捉え、かつそれを「民族の初源的な生命力・・・美的な形式を打ち破ろうとする生命力」と呼び換えている (*10)。ここには民族の基底に位置するアノニマスな民衆の力が含意されており、そうすることで必要に応じて、同時代の左翼的なリアリズムの理念やパトスにも一定の目配りを怠らない。「大東亜建設記念営造計画」の立案者のそうした身振りはまた、長谷川堯の口吻を借りれば、ミケランジェロとル・コルビュジエのクラシシズムを信奉しつつ、極東の地に国家祭祀の場を設えようと、「神殿的思惟」を携え「神官の位置」に立つ「自由な建築家」たる自負の表現であり (*11)、「ナショナル・アーキテクト」 (*12) であればこそなのである。しかし、「伊勢」に日本文化の「原形」を見出そうとする丹下の視点は、磯崎新のような強力な後続者によって、正しく「始源のもどき」への誤認に過ぎないとみなされ、否定されるべきものとなるだろう (*13)

3

 ただ、ここで注目しておきたいのは、「伝統論争」を丹下健三と気脈を通じながら仕掛けただろう川添登の主導した批評の基軸や言説における、すでに歴史に登録された「二つの二項対立」やその巧妙な統合ぶりではない。むしろ、そうした彼らのクライテリアに収まりきらない、建築と写真とが取り結ぶ偶発的な関係なのである。
 無防備に写され遺された写真は、時として伝統という「型」の保存と適用にまつわる建築家や批評家の思惑を不規則に超えてしまうことがある。東京都写真美術館と東京オペラシティ アートギャラリーでの石元の回顧展で最近目にした膨大なイメージのうち、型や範例に該当するようでありながら、そこから微妙にはみ出てしまう出品作の一点に、竣工当時の「陳列館」、現在の平和記念資料館本館を南から北への軸線を意識して撮影したものがある (*14)。ピロティ下部を見やった先には原爆ドームも確かに見えており、視線の方向こそ定型を踏まえたものだ。だが画面手前を過剰に大きく占める南側の広場は未だ整地が充分でなく、地面の凹凸が顕著であり、ドームの廃墟性とは別の観点から、ここが爆心地と想い返すことが可能となる。
 当時の「陳列館」の写真には、例外性を帯びた別の一枚がある。先述した国際文化振興会の肝いりで製作された『Architectural Beauty in Japan』に収録されたものがそれだ (*15)。この書物は二部構成に拠っており、前半が仁徳天皇陵の空撮から始まり、渡辺義雄撮影の「伊勢」へと転じていく伝統的な建築を収めたパート1には、石元泰博と便利堂の佐藤辰三による「桂」も収録される。後半のパート2は現代日本建築のアンソロジーといえる内容で、丹下のほか、坂倉準三、前川國男、谷口吉郎、大江宏、吉村順三、清家清、村野藤吾らによる50年代前半の代表作ほか、「和風」建築として吉田五十八、堀口捨己らの作例も載る。その中で、丹下の代表作の一つとして収録された「陳列館」の写真では、前景手前に荒れた地面に石くれが放置してあり、やや左に大きく慰霊碑が配されるが、全体の構図は中途半端だ。この「陳列館」は、「軸線」に沿って南から北を臨む通例とは逆アングルで捉えられている。丹下の構想を踏まえるならば、「軸線」と重なるよう、中空に浮遊する横長の箱の長辺と直角に交叉する観者の眼差しを受け止めつつ、ピロティの柱脚の間から当の視線を逃がして慰霊碑へと到らしめ、さらにはその先に位置する原爆ドームの方まで届かせるのが筋である。しかも肝心の陳列館のピントは甘く、左右周縁のパースも歪んでいる。巻末に撮影者のクレジットもなく、丹下本人か丹下事務所の誰かが写したスナップ写真のようにさえ見える。他の現代建築のアンソロジーがいずれも、優れた技術を誇示する写真家の助力を得つつ、われがちに端正なモダニズムの消化ぶりを示しているのに比して、この写真はそれをいわば不機嫌さとともに放棄している。キャプションには整備計画の遅れが経済的な困難によるものとされ、計画全体が未だ建設途上にあることも録されるが、そのことが写真にまつわる奇妙さの訳なのだろうか (*16)。さらに考慮すべきなのは、この出版物が原爆を投下した国の読者へ向けて制作されたものであることだ。崩れた格好を持つこの写真は、対米的なコンプレックスからくる、ささやかであれ痛ましくもある反抗のしるしなのだろうか。しかしこの未だ荒れた周囲において投げやりに定着する、斜行し逆方向を指す視線は、その軸線との「ずれ」において無視すべきでない移行期の様態とはいえないだろうか。
 さらに、もう一枚の写真を召喚しておきたい。建設途中の「陳列館」を丹下健三その人が1952年頃、短い方の側面から撮影した写真だ (*17)。画面前景には、毛利輝元が開いた誓願寺の墓石が不自然に、かつ不揃いに林立している。改葬のため約4キロ離れた三滝墓苑へ移動する前に一時的に集められたものであった (*18)。戦前、いまの資料館周辺の材木町には、誓願寺が広い面積を占めていたほか、北に浄圓寺、西に妙法寺、東南に慶蔵院などが点在していた。辺りは1945年より前からすでに、寺院に囲まれた、地域の人々にとっての墓所、つまり慰霊の場所を含んでいたはずだ。丹下撮影による、墓石を手前に画面奥に「陳列館」の側面を見せている写真は、土地の来歴を一瞬剥き出しにしているのである。もっとも、そのような死者をも蹂躙して出来したグラウンド・ゼロの光景が新規の慰霊空間へと移行するに際し、建築家は「伝統」との回路を持つ、複数の範例的なソースが複合した造形による建築を配置して、加えてここに集う人々の視線を統べて直行する軸線を引いて見せた。その真っ直ぐな軸線は「陳列館」から慰霊碑へ向かった後、「原爆ドーム」をも過ぎ越していく。その先には幻視されるべき「国家」が待ち構えており、そこへ到り着く眼差しの共有こそが詭計的抑圧として賭けられていたのではなかったか。しかしコンタクトプリントに遺された丹下自身の撮影によるこの写真の一齣には、「陳列館」を側面から、東西の軸において捉えるばかりであり、そもそもそれ以上の視線の伸張は果たされない。さらにいえば、ここではあくまでも墓石という物質の現前が、設えられた国民国家の「軸線」とあっさりと重合しかねない広島という場所における我々の視線の危うさを、かろうじて押しとどめているのだ。「死者」が蘇生してくるのは、かくのごとき偶発的なイメージの残置にも拠るのだと痛感する。

*1 『新建築』における川添の仕事については以下を参照。中森康文「川添登『新建築』と伝統論争:日本的悲劇の突破口として」『メタボリズムの未来都市展——戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン』企画・編集・発行森美術館、2011年、242-248頁。
*2 磯崎新「[講演録]伊勢神宮はなぜモノクロで撮影されたのか?——石元泰博の建築写真」、東京都写真美術館他編『石元泰博 生誕100年』平凡社、2020年、194頁。石元の伝記的な事項も同書を参照した。
*3 以下を参照。丹羽晴美「渡辺義雄——写真への挑戦と表現の変遷」、東京都写真美術館編・刊『渡辺義雄の世界——人・街・建築への視線』、1996年、10頁。澤本徳美「渡辺義雄の写真」、同書、15頁。渡辺の伝記的事項も同書を参照した。
*4 引用は、丹下健三「序」、ワルター・グロピウス、丹下健三、石元泰博『桂 日本建築における伝統と創造』造型社、1960年、5-6頁参照。
*5 『新建築』での「伝統論争」に絡んだ丹下への批判については、以下を参照。岩田知夫(川添登)「丹下健三の日本的性格——とくにラーメン構造の発展をとうして——」、『新建築』1955年1月号、62-69頁。今和次郎「民衆と建築」、同誌1955年2月号、4-5頁。ただし特に広島計画における「陳列館」については岩田=川添は一定の評価をしている。
*6 この計画とその文化的・技術的背景に関しては以下を参照。岩田知夫(川添登)、前掲書、62-69頁。および川添登「国民的秩序の形成」(1962年)、川添登『日本文化と建築』彰国社、1965年、276-297頁。また「公会堂」についての当局に対する設計サイドからの厳しい批判として以下がある。浅田孝「広島計画(1946-55) 主として平和会館についての最終報告」、『新建築』1956年6月号、38頁。
*7 「大東亜建設記念営造計画」の丹下に戦争責任よりも若き建築の徒としての、モダニズム建築への反意と超克の意志を読みとろうとする論考に以下がある。井上章一『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995年、180-207頁。他方、飯島洋一は戦前・戦後の丹下の建築を周到に論じる中で、広島計画において配置された視線を天皇の身体を視る際の、禁忌としてある対象を眺める抑圧的な視線=「御真影」を視る人々の眼差しと重ねている。飯島洋一『王の身体 昭和天皇の時代と建築』青土社、1996年、87-130頁。さらに東琢磨は、平和記念公園の中心から北へ伸張していく「軸線」の先(原爆ドームのさらに北)には商工会議所があり、そこが戦前には護国神社の位置していた場所であることを指摘し、戦中・戦後における丹下による「軸線」の反復の意味を批判的に掘り下げている。東琢磨『ヒロシマ独立論』青土社、2007年、70-75頁。また以下も参照。東琢磨「忘却の口 他なる記憶の避難所として」、東琢磨・川本隆史・仙波希望編『忘却の記憶 広島』月曜社、2018年、58-62頁。
*8 鈴木博之『日本の地霊(ゲニウス・ロキ)』角川ソフィア文庫、2017年、40-44頁参照。
*9 以下の当時の記事を参照。白井晟一「縄文的なるもの 江川氏旧韮山館について」、『新建築』1956年8月号、4頁。および神代雄一郎「作家の伝統論の意義 書評 岡本太郎著「日本の伝統」」、『新建築』1956年11月号、68-69頁。ちなみに江川氏旧韮山館の写真は石元が担当しており、その意味で石元の写真の仕事は、丹下と白井(さらには磯崎)、あるいは弥生的なものと縄文的なものを含む射程を持つ。
*10 丹下健三「序」、前掲書、6頁。
*11 長谷川堯『神殿か獄舎か』相模書房、1972年、251-267頁参照。
*12 八束はじめ「本展覧会の構成 「メタボリズム連鎖(ネクサス)」としての「近代の超克」、企画・編集・発行森美術館、前掲書、10-16頁参照。
*13 磯崎新『始源のもどき』鹿島出版会、1996年、2-49頁参照。また、「伝統論争」への介入者としての磯崎の言説が、写真論へと接続された注目すべき事例として、以下の東松照明の連作「家」についてのエッセーを参照。磯崎新【題なし】、東松照明『日本』写研、1967年、頁なし。
*14 東京都写真美術館他編『石元泰博 生誕100年』、88頁参照。
*15 The Kokusai Bunka Shinkokai, Architectural Beauty in Japan(New York: The Studio Publications, 1956), 82. 参照。
*16 S. Horiguchi and R. Hamaguchi, “Notes on Plates, ” Ibid, 156.
*17 岸和郞・原研哉監修、豊川斎赫編著『TANGE BY TANGE 1949-1959/丹下健三が見た丹下健三』TOTO出版、2015年、32頁。
*18 丹下撮影の写真が映し出すものについて、西井麻里奈は次のように述べている。「この写真に写る、1952年まで材木町に残っていた墓は、・・・持ち主が判明しないまま現地に残されていた墓石であり、後にやむなく処分されることになったものだろう」。「丹下が撮影した墓石は、墓地の移転が容易には終わらなかったこと、移転の背後で弔う者とのつながりを絶たれた多くの死者の存在を物語るものだった」。引用部分を含めた丹下の写真について、および誓願寺移転の詳細については、西井麻里奈『広島 復興の戦後史 廃墟からの「声」と都市』人文書院、2020年、133-172頁参照。また被爆以前の平和記念資料館周辺の環境については、たとえば以下を参照。
http://www.mogurin.or.jp/museum/library/aozora/1015_heiwa.pdf

倉石 信乃 明治大学理工学研究科総合芸術系教授。近現代美術史・写真史・美術館学。1988-2007年、横浜美術館学芸員として「マン・レイ展」「ロバート・フランク展」「菅木志雄展」「中平卓馬展」「李禹煥展」などの展覧会を担当。著書に『反写真論』、『スナップショット-写真の輝き』、『失楽園 風景表現の近代1870-1945』(共著)など。

 

*

安保68年、皇紀2680年
文:清水穣

「伝統」は、B地方ではないA地方の伝統、B国とは異なるA国の伝統、地球上のA地域とB地域を分ける伝統である。Bと交わらなければ、Aの伝統は存在しない。「伝統」は外圧の産物なのである。人間の移動範囲の拡大に応じて、AB地方はA国の伝統の中へ、AB国はA地域の伝統の中へ吸収される。アクロポリスの丘の麓、入場券売り場の横には「ヨーロッパはここにはじまるEUROPE STARTS HERE!」という看板が生真面目に掲げられているが、パルテノン神殿を大々的に破壊したのはヴェネツィア軍の砲撃であった(1687年)。「西欧文明の起源はギリシア」という「伝統」は、どんなに早くても18世紀以降の産物と言えるだろう。
 次に、伝えられてきた系統として、「伝統」には、時代から時代へと伝えられる何らかの連続性が措定される。それは歴史的記録に裏打ちされる必要があるが、不変の同一性を前提とするわけではなく、後から何らかの同一性を導出できればよい。ひたすら同一性を保つだけの頑なさが現実に時代を超えて続くことは稀だろう。むしろ記録さえ残っていれば、大抵の異同は「不易流行」で済ませ、究極的には「伝統とは伝統破壊の連続だ」という同一性を強弁できる。
 最後に、「伝統」は今も生きていて、これからも生き続けるとされるものである。物自体、作品自体から辿れる系統(例えば正倉院御物に見られる様式や技術の伝播)を「伝統」とは呼ばない。また、遺跡や遺構(ピラミッド、ストーンヘンジ、コロッセオ等々)のように、物理的に存在し続けている連続性も「伝統」とは異なる。すでに死んだ、つまり同一のまま変化しない文化は伝統ではない。
 以上を合わせると、「伝統」とは、国民国家Nation State相互の外圧によって生産される物語であり、日本の伝統とは、「外国」と出会った「日本国」が、その歴史や系譜、真偽さまざまな伝承の中から作り上げ、今でも効力を保っているものだ、と。現在の日本で「伝統〜」が付く代表的な言葉といえば「伝統芸能」と「伝統工芸」だろう。これに対置される「現代〜」「モダン〜」(*1) は、カタカナ語が示すとおり、西洋近代という意味である。つまり「外国」とは「欧米」諸国であり、「伝統」とは、脱亜入欧を目指した日本が「欧米」に対して構成したものだ。それは「欧米」に染まる以前の、純粋に日本固有の美と技 ―Bと出会う以前の純粋なA― を保っているという意味だが、先に述べたように、「伝統」が発生するのはBとの交流が条件であるから順序が逆である。Bを知る以前に「伝統」は存在しない。それは、存在していたはずの「純粋な固有性」を求めて、外圧に応じて後から創作されたものなのである。
 明治時代の国民国家日本が「欧米」に向けて「純粋な固有性」として打ち出した芸術の好例が、いわゆる明治工芸である。しかし宮川香山を代表とする超絶技巧工芸のほとんどは中国にルーツを持つものであり、「伝統」を始めとする西洋の概念を「和訳」した、その言葉のすべてが漢文・漢語に基づいている。脱亜入欧を目指したはずの明治政府は、「西洋」を「東洋=漢」によって受け止めざるを得なかった。このズレは、19世紀末にかけて西洋列強に徐々に露顕していった。1860年の圓明園事件での略奪に始まり、以降、故宮から次々と流出した清朝の宝物が英仏市場に流通し始めると、明治時代の官製の「伝統工芸」が、じつは最盛期の清朝工芸の現代版反復であることは、もはや否定できなかった。たとえ同時代の清朝工芸がその高みにもはや達していなかったとしても、それは言わば「中国を超えた中国」にすぎない。だから1920年代にモダニズムの波が押し寄せたとき、日本の伝統工芸は改めてその「オリジナリティ」を問われることとなる。そこで作り出された理論が「民藝」であり、見いだされた起源が、安土桃山時代から江戸初期にかけての「桃山陶」であった。現在の日本の「伝統陶芸」は相変わらずこの2つの徴の下にある。われわれがすぐに思いつくような伝統美学(侘び寂び、不完全の美、等々)は、この時代に継ぎ接ぎされた物語である。完璧な中国陶磁に対抗する美学としての「不完全の美」という言葉自体、岡倉覚三の『The Book of Tea』の邦訳(村岡博訳、1929年)に登場する「a worship of the Imperfect」に由来するだろう。「真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。」(同第4章)

 話を写真に戻そう。ダゲレオタイプについての言及が日本史上に登場するのは1843年、これはダゲールがパリのアカデミーで自分の発明を発表してからたった4年後のことである。最古の写真は1857年、島津斉彬の肖像写真とされている。19世紀の時間感覚を考慮にいれれば、写真に関しては(日本側の一方的な受容に基づくとはいえ)最初から同時代性を前提としてもよいだろう。アメリカ西部の開拓写真とほぼ同時代に北海道開拓写真が撮られ、世紀末をはさんで日本でもピクトリアリズムが主流となり、やがて戦間期にはモダニズムと新即物主義に応じて、フォトグラムやコラージュ、そして新興写真が撮られ、大戦後にウィリアム・クラインがブレボケを(『New York』1956年)導入し、エド・ファン・デァ・エルスケンが黒々としたコントラストの強いプリントを発表すれば(『Sweet Life』1966年)そういう写真が流行る、と。1974年、ニューヨーク近代美術館で、山岸章二とジョン・シャーカフスキーによる初めての日本写真展「New Japanese Photography」が開催されたとき、アメリカ側の批評はほとんどが否定的なものであった (*2) 。当時の名の通った「知識人」の、救い難く無自覚なレイシズムとコロニアリズムで曇った眼差しを差し引いても、展示された写真群は、まさにその「同時代性」ゆえに「New」ではなかったわけである。また、歴史が浅く、しかも日本でも同時代的に発展してきた写真というジャンルにおいて、何が「Japanese」であるかは曖昧であった。シャーカフスキーは、彼が直感していたはずの「Japanese」な固有性を、コロニアルな思考フレームを超えて論じられるほど時代を先駆けてはいなかったし、山岸章二は平等な「同時代性」に拘って国名のレッテルを拒絶した。だがその抵抗は、レイシズムとコロニアリズムの時代には無力であった (*3) 。
 写真において「伝統」は、例えばHistory of Japanese Photographyと言われるときの、その「日本Japanese」とは何を意味するかという問題として現れる (*4) 。カレン・フレイザー Karen M. Fraserの『Photography and Japan』(2011)は、タイトルからも読み取れるように、ポストコロニアルな研究のレベルを踏まえた新しい日本写真史の教科書として、冒頭でこの問題にふれている。日本写真の「日本」は、そこに何らかの固有性を理解するのであれば、国籍のことではないし(とはいえ、これが世界でもっとも一般的な用法だが)撮影場所のことでもない。「日本写真」とは日本国籍の作家が日本国内で撮影した写真である、という定義は、問いに答えていない。だからといって、上述の通り写真は最初から同時代的でグローバルであるから、本質主義的なアプローチは不可能である。江戸末期の写真に浮世絵の構図からの連続性を見るという議論もあるが、浮世絵はヨーロッパの画家や写真家にも影響を与えており、彼の地への連続性もある。また、本質主義それ自体のコロニアルな性質からして、それが見出す「日本的本質」は、自動的にステレオタイプ ―”Kû” (Void)、”Ma” (Espacement)等々― を反復するだろう。
 そこでフレイザーは、「日本写真」とは言わずに、「日本」と「写真」が歴史的にどのように関わってきたかと問いを立て、3つの概念を提示する。「アイデンティティ」「戦争」「都市」という3本の導きの糸が、日本と写真の関係を最もよく解き明かしてくれる、と。それはその通りだが、同じことは、国民国家としての「アイデンティティ」を問い(あるいはその過程で「ヨーロッパと自国」というコロニアルな思考に冒され)、20世紀という「戦争」の時代を通過し、「都市」文化を発展させた国なら、どこにでも当てはまるだろう。さらに「写真」が際立って関係しているという条件を加えても、該当する国は相当数見つかるはずだ(写真と、アメリカ、トルコ、メキシコ…)。日本だけに該当する「日本」写真を定義するには、そこに見いだされる特徴が、日本固有の歴史的文脈に条件付けられていることが必要である。

 さて、日本写真や日本映画、とりわけ戦後写真・映画の研究者が共通して挙げるその特徴が、リアリズムである。50年代の「社会的」リアリズムに始まり、60年代の「主観的」リアリズムを経て、Provokeの「表現主義的」リアリズムを通過し70年代前半に至るまで、この時代の日本の写真家やドキュメンタリー映画の作家たちは倦むことなくリアリズムを追求し、活発に論争を繰り広げている。リアリズム、というか「リアルなもの」への情熱は、たしかに戦後日本写真の際立った特徴と言えるだろう。50年代のフォトジャーナリズム(「乞食写真」)のスタイルにせよ、VIVO同人のシュールリアリスティックな表現にせよ、安保闘争の記録写真(濱谷浩、渡辺眸、北井一夫)やProvokeの激しいアレブレボケにせよ、すべては「リアルなもの」を暴露するための方法であった。「リアル」をめぐる、この一種のヒステリー症状が、日本の歴史的文脈に由来するならば、これこそ(戦後限定だが)「Japanese」の内実となろう。
 日本戦後史研究の膨大な蓄積 (*5) によって、1945年から1952年にかけて、SCAP(Supreme Commander of the Allied Powers)と称しつつ事実上アメリカ ―ダグラス・マッカーサー元帥― によって遂行された占領が、その目的も手段も、かなり無理で前例のない体制であったことは、大まかな共通認識となっている。端的に言えば、同じく敗戦を迎えたドイツでの連合軍の占領政策が、ドイツの再教育(刑務所で囚人を再教育する意味で)であったのに対し、日本のそれは、過去を一旦全否定してゼロからアメリカ化を目指した植民地教育であった。「明治維新から約80年の「近代化」は間違っていた、全て忘れてゼロからアメリカ式で学び直しなさい、君はまだ12歳だ、やり直しが効く」と。さらに、日本占領の特徴として、旧日本軍部に勝るとも劣らぬ検閲と言論統制が挙げられる。まず検閲の事実そのものが検閲された。さらに、GIによる犯罪はもちろん、焼け跡、戦災孤児、傷痍軍人や原爆被害者など、すべて、昨日の敵を今日の友となすことに逆行するような写真(撮影も発表も)は日本人には禁止された。処罰が厳しい反面、この見えない検閲はかなり恣意的であったので、日本のメディアは自己検閲に追い込まれた。その結果、占領下の紙面・誌面には、民主主義と平和と自由を強調する無害無毒(?)な写真ばかりが多く登場することとなった。
 日本の占領下における戦争関連写真の不在とは対照的に、同時期のドイツでは、強制収容所の写真 (*6) に代表される、ナチによる戦争犯罪の証拠写真が溢れかえり、さらには空爆によって破壊された都市の写真集がベストセラーになった。ケルンやドレスデンを破壊し無数の一般市民を殺害した連合軍の無差別爆撃を告発する写真集 (*7) が、普通に出版できたわけである。戦争関連写真の氾濫は、50年代のドイツをリアリズムではなく、「主観的写真」(オットー・シュタイナート)と抽象表現に向かわせた。これはナチ時代を否認し、それ以前の時代(1920年代)への逃避、ないしは再接続とみなせるだろう (*8) 。同様に、同時期の日本で「リアルなもの」が探求されたその原因もまた「占領」にあることが予想される。

 そもそもリアリズムはどういうディスクールに支えられていたか。字数もつきてきたので、シャーカフスキーにまとめてもらおう:「1枚の写真の真実が信じられるのは、われわれが、レンズは偏らず、対象をありのままに、良く見せも悪く見せもせず、描き出すと信じるからである。」(Photographer’s Eye, 1966年)。リアリズムのディスクールは「ありのままas it is」を中心とするディスクールであり、これは対立概念のどちらにも偏らない中立性の謂である。リアリズム写真の核心は、美醜、善悪、優劣、貴賤…を超えた「ありのまま」の真実の世界でありモノ自体だ、と。1910年代にストレート・フォトグラフィーとともに生じたこのディスクールは、20年代から30年代にかけてシュールリアリズムによって一捻り加えられる。現実は、通常の現実とシュールな(=ありのままの、真実の)現実というように二重化し、前者の表層下に後者は隠れていて、芸術家の人為=創作による露出を待っている、と。シュールリアリズムは、「ありのまま」のディスクールを、「暴露のディスクール」ないし「裸のディスクール」へと変奏することで、撮影・現像・選択という写真に付随する人為的操作と、結果として要請される無為自然の「ありのまま」とのあいだの矛盾を解決し、ここから多彩な「ドキュメンタリー」が展開していった。
 この標準的なリアリズムのディスクールを、占領下日本に適用すると、齟齬が生じる。暴露されるべき「ありのまま」「裸」の日本とは、オキュパイド・ジャパンという人工的な強制に他ならなかったからである。占領は、まず開国以来の近代化日本(全速力で西欧列強を模倣し、ヴェルサイユ条約に署名するくらいには成り上がった日本)を全否定した。上で述べたように、前近代的な「伝統」的日本とは、近代化とともに「伝統」として作り出された物語である。皇室の西洋化に象徴されるように、それは日本人自身によってすでに過去のものとされている。では新生日本はどうかというと、周知のように、占領政策は始めの数年こそ「民主主義と平和と自由」の路線を歩むかに見えて、早くも40年代末にはいわゆる「逆コース」に転じる。占領を終わらせる条件は、サンフランシスコ講和条約に安全保障条約を抱き合わせることであった。それは、東アジアの共産化の波を食い止めるべく、地政学的に重要な軍事戦略拠点として、「新生日本」がアメリカの支配の下、冷戦体制に組み込まれることを意味した。
 標準的な「裸のディスクール」の「システム」versus「外部」の二元論において、両極は対等ではなく、「外部」は、あくまでも「システムの」外部であり、つまりはシステムの内から外への投影である(=オリエンタリズム:40年代末から50年代末にかけてのリアリズム論争(安部公房や針生一郎など)において、シュールリアリズムが批判されるのは、そのためである)。占領下の日本においては「システム」(近代化日本も、新生日本も、伝統日本も)が完全に破壊されたために、この投影は不可能である。そこから「外部」の不在が発生する。つまり、「ありのまま」「真実」「裸」は存在しない。暴露されるべき「リアル」は不在なのである。冷戦体制の中で植民地化された、とは「ありのまま」を奪われたということなのだ。戦後日本写真の特徴はリアリズムにある、という。しかしそれは「リアルなもの」を奪われた否定的なリアリズムであり、未知で不在の「リアル」 ―そこには当然あるべき、来たるべき「日本」が重ねられている― を熱望し、与えられた安保下「日本」を否認し続けるリアリズムなのである。
 占領の終わりが見え始め検閲が緩やかになってきた50年代初頭、戦後日本の「リアリズム」は、まずは封殺されていた目前の現実を奪回する「社会的リアリズム」として表れた。それが形式的な「乞食写真」の反復にしかならないことが明らかになった(55年頃)後には、それは、「リアル」を何か(「古寺」や「雪国」)に投影するリアリズムへと傾斜していった。敗戦時に成人、つまり戦前と連続した世代の写真家には、まだそのような投影が可能だったということである (*9) 。60年代になると、戦前と戦後に分裂した世代(VIVO、敗戦時点で中学生)が、「占領」=「裸の現実」という矛盾こそを「リアル」と見なして、個性的でシアトリカルなリアリズムを展開し、さらに70年代にかけて、この独特の否定的リアリズムは、リアリズム本体の枠組み ―「ありのまま」「暴露」「裸」のディスクール― がメディア社会の到来とともに広告化し無効化し始める戦後写真の大きな移行期と重なり合って、一種のメディア批判と結びつくこととなった(Provokeの世代)。

 歴史家の五十嵐惠邦によれば (*10) 、日本に「リアル」熱をもたらすこのような体制(安保体制)を準備したのは、彼が戦後日米関係の「foundational narrative」と呼ぶ、一種のメロドラマである。メロドラマ ―長谷川一夫+李香蘭出演の『支那之夜』(1940年)など― には、男が愛する女に平手打ちを食らわせ、女がその痛みとともに男の深い愛情を理解する、というパターンがあるが、ここでは男はアメリカ、平手打ちは原爆投下(しかも2回!)、女は日本という配役なのである。戦争を終らせるために原子爆弾の使用をトルーマンが決断し、それが最後のショックとなって昭和天皇を動かし、天皇の「聖断」によって戦争が終結した、二人の偉大な人間の、原爆を間に挟んでの決断が、悲惨な戦争に終止符を打ったのだ、と。
 事実はかなりメロドラマとは違っている。1945年8月10日に、日本政府は連合軍側にポツダム宣言を受諾する意向を伝えたが、そこには絶対に譲れない条件として「天皇制存続」が挙げられていた。この条件が受け入れられなければ、日本人の最後の一人に至るまで徹底抗戦する、と。8月12日の御前会議で、朝香宮鳩彦王(やすひこおう)が、皇室の存続が認められなければ戦争を継続する意志があるのかと昭和天皇に確認したところ、天皇裕仁は当然だ、と答えたという (*11) 。敗戦後、天皇は1945年9月27日にマッカーサーを訪問し、「平手打ちによって男の愛を悟った女」の役を見事に演じて、つまり占領政策への恭順・協力の意思を示すことで、マッカーサーの庇護を獲得し、東京裁判を免れた。さらに1947年、昭和天皇はGHQに使者を遣わして、対ソヴィエト戦略としてアメリカ軍による琉球諸島の長期的な占領は好ましいというメッセージを送っている、すなわち昭和天皇は、来たるべき安保体制に積極的に協力していたわけである (*12) 。

日本写真:
アメリカ製憲法にその地位を保証された天皇家と、日米地位協定で上位を占めるアメリカの相互協力による、ソフトな植民地体制としての安保体制のなかで、周期的に「ありのままのリアル」を求めてヒステリー症状を起こす、過去68年間の日本の写真のこと。昭和天皇とマッカーサー元帥のカップル写真がその象徴である。戦後日本人のトラウマとなったこの写真こそが、植民地体制の鍵であった (*13) 。

キャプチャ

*1 現代美術、モダンアート、現代音楽、現代アート、現代工芸、モダン工芸、クラフト等々。
*2 Kai, Yoshiaki. Distinctiveness versus Universality: Reconsidering New Japanese Photography. Ann Arbor, MI: Michigan Publishing, University of Michigan Library, 2013.
*3 専ら英語圏における日本写真の研究が、レイシズムとコロニアリズムを脱して、日本語文献・資料の読解力共々、学術的に「まとも」なレベルに達するのは1990年代末以降である。まだ発展途上の若い研究領域ということだが、ここ20年間の成果には眼を見張るものがある。
*4 History of American/French/German/British/…. Photographyでも同じことが言えるはずだが、ほとんど問われることがない。「The West and the Rest」(スチュアート・ホール)の構図において、前者はその問いを免れるからである。IDを問う者は権力側に立っており、問われる者は劣勢に置かれている。
*5 新しいところでは Dower, John W. Embracing defeat: Japan in the wake of World War II. WW Norton & Company, 2000. Matsuda, Takeshi. Soft power and its perils: US cultural policy in early postwar Japan and permanent dependency. Stanford University Press, 2007. Pyle, Kenneth B. “The Making of Postwar Japan: A Speculative Essay.” The Journal of Japanese Studies 46.1 (2020): 113-143. 古いところではヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本(完全版)』(角川ソフィア文庫、2015年、原著は1946年)等々。
*6 ダーハウとベルゲン・ベルゼン強制収容所の写真群(アウシュヴィッツではない)。骸骨のように痩せこけたユダヤ人のイメージは、戦争末期の食糧不足からの飢餓によるもので、強制収容所のユダヤ人絶滅(専ら毒ガスによる)とは無関係であるとハンナ・アーレントが指摘している。
Arendt, Hannah. Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft, Piper, München 1986/1951.
*7 ヘルマン・クラーゼンHermann Claasenの『燃え盛る炉の中の歌Gesang im Feuerofen』(1947)、リヒャルト・ペータースRichard Petersの『ドレスデン―カメラは告発するDresden – Eine Kamera klagt an』(1949)など。ちなみに前者のタイトルは旧約聖書のダニエル書に由来するが、この写真集の影響はカールハインツ・シュトックハウゼンの電子音楽『少年の歌Gesang der Jünglinge』(1955/56)にまで及んでいる。
*8 Glasenapp, Jörn. Die Deutsche Nachkriegsfotografie, Wilhelm Fink, 2008. p.161以降参照。
*9 濱谷浩が『怒りと悲しみの記録』(1960年)を出したのは、この投影が決して「リアルなもの」の回復にはならないことを自覚していたからだろう。
*10 Igarashi, Yoshikuni. “The Bomb, Hirohito, and History: The Foundational Narrative of United States-Japan Postwar Relations.” positions: east asia cultures critique 6.2 (1998): 261-302.
後に単行本にまとめられている。Igarashi, Yoshikuni. Bodies of memory: narratives of war in postwar Japanese culture, 1945-1970. Princeton University Press, 2012.
*11 Igarashi (1998), 266
*12 Igarashi (1998), 284-285
*13 天皇制とは、公称2680年前から続く天皇家による日本列島の占領体制なのかもしれない。だから、実は安保とは相性がよいのだろう。天皇制+安保体制の両輪とともに日本写真の「伝統」も続いていく、と。冷戦体制など、30年前に崩壊しているはずなのだが。

清水穣 美術評論家、写真評論家、同志社大学教授。主な訳書・著書に『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』(淡交社、増訂版2005年)、『シュトックハウゼン音楽論集』(改訂新版2002年、現代思潮新社)、『白と黑で―写真と…』(現代思潮新社、2004年)、『写真と日々』(同、2006年)、『日々是写真』(同、2009年)、『プルラモン 単数にして複数の存在』(同、2011年)、『デジタル写真論』(東京大学出版会、2020年)など。定期的に内外の展覧会図録や写真集、「美術手帖」「陶説」といった雑誌に寄稿している。